東寺の五重塔の初層内部には、空海が唐から持ち帰った密教による極彩色に彩られた空間が広がっており、重厚な外観からは想像もつかない荘厳な世界を垣間見ることができる。密教は仏教の一つであり、その教理は現代物理学の理論にも通じている。


「特別拝観 東寺の全て」の立て看板。



「真言宗立教開宗1200年記念 特別拝観 東寺の全て」という特別展が2023年10月に開催されました。この特別展を見て、密教である真言宗を開いた空海という天才的な人物にあらためて興味を持ちました。彼は僧侶の枠を超えた特別な才能を持っていました。司馬遼太郎の「空海の風景」を読むと、奈良末期774年から平安初期835年までの、空海が生きた時代が生き生きと蘇ってきます。当時、密教は奈良の古代仏教より先進的な仏教であり、空海によって初めて本格的に日本に導入されました。



東寺に展示されている胎蔵曼荼羅では、中心に大日如来が描かれ、国宝に指摘されている。もう一つの曼荼羅である金剛曼荼羅とともに2つでワンセットである。



密教である真言宗には、その教えを表現する唯一の仏具として曼荼羅があります。胎蔵曼荼羅は宇宙と人間もしくはあらゆる存在が慈悲 (理)で相互に依存しながら結びついていることを、また、金剛曼荼羅は宇宙と人間もしくはあらゆる存在が智慧 (知)で結びついていることを示しています。すなわち、胎蔵曼荼羅は一般的に情感や慈悲の側面を、金剛曼荼羅は智慧や知の側面を表しています。この両者は切り離せず、密教理論の根幹は「一切即一切」という考え方に集約されます。これは、宇宙と人間、そしてあらゆる存在が密接につながっており、本質的には一つであるという思想です。空海の教えでは、宇宙の根本原理と個々の存在が相互に影響し合い、互いに不可分であることです。さらに興味深いことは、この1200年前の仏教思想が、現在の量子論や相対性理論を統合する理論と合い通ずる考え方を持つことです。



東寺講堂には、大日如来を中心に立派曼荼羅が安置されている。



東寺講堂内の立体曼荼羅。中央に大日如来を配した21体の仏像群は、密教の宇宙観や教義を立体的に表現しており、国宝に指定されている。真言密教の教義について、この立体曼荼羅と前述の2つの曼荼羅は全く同じことを教えさとしている。



また、東寺には大日如来を中心に、実在感のある21体の仏像群が立体曼荼羅として、静謐な空間に配置されています。講堂内に入った瞬間、その重厚な存在感に圧倒されます。金堂や講堂に配置されている曼荼羅は空海が唐から持ち帰った仏具の一つですが、立体曼荼羅は、彼が唐から日本へ戻った後に、密教の独自解釈を元に生み出された仏像群です。二次元の曼荼羅を三次元に展開した、空海の自信作でしょう。


空海は774年に讃岐 (現在の香川県善通寺市) で一豪族の家に生まれました。14歳で奈良へ上京し、791年、18歳で大学の明経科に入学。入学前に受験のため、母方の叔父の阿刀大足 (あとのおおたり) から論語、史伝、文章などを学んでいます。大学に受かったものの、論語の教義に否定的で、すぐに退学したとされています。その後、空海は様々な厳しい修行を行いながら、仏教の深い知識と修養を積みました。修行中、"室戸岬の洞窟で修行をしていた時、明星 (金星) の光に包まれて深い悟りを開いた" との伝承は有名です。



赤は空海の長安への往路、緑は最澄の天台山への往路を示す。最澄らは先に唐へ着いた。彼だけは天台山にある天台山大慧禅寺に直行し、長安には行かなかった。空海らは陸路および運河を通って、長安まで1ヶ月半の旅をした。



空海は804年、31歳の時に、留学生として唐に渡りました。遣唐使は4つの船に分乗。空海は120人の随行者と第1船に乗り、34日間の航海の後、赤岸村に漂着しました。第2船に乗った最澄も無事でしたが、第3船は途中で日本へ引き返し、第4船は途中で沈没しました。当時、日本の船には、キール (竜骨) がなく平底であり、中国やイスラム帝国に比べて造船技術が稚拙でした。また、航海術も発達しておらず、航路は呪い師が決めていました。


漂着した赤岸村から福州 (現在の福建省) まで川を遡って船を回航しました。遣唐使を証明する書類を持っていなかったため、役人から密航者と間違われ一行は足止めされました。空海が卓越した漢文で下船許可の手紙を書いたため、福州の行政官が驚き、彼らが遣唐使であることがようやく認められ、さらに、中央政府から長安への入城許可も得ました。その後、福州〜杭州 (現在の浙江省) 〜洛陽〜長安と、およそ2400kmの行程で、冒険の様な旅を続け、空海の一行は唐の長安に入りました。


入唐後、彼は5ヶ月間インドのサンスクリット語を学んだり、漢詩や書を披露して社交的な関係を築いたり、更に、筆や墨の作り方を自ら体験して技術を会得しながら、唐中央部で彼が卓越した僧侶であるとの噂が広がるまで、青竜寺住職の恵果への謁見をじっくりと待ちます。噂が広がった後、恵果に謁見。会った瞬間に、空海はその偉大な才能を恵果から認められました。1000人いた弟子たちを差し置いて、3ヶ月間という短い期間で、3度の灌頂 (かんじょう、頭に水を注ぐ儀式) を受け、恵果の正式な密教後継者となりました。青竜寺住職の恵果は、中国で唯一の密教指導者であったため、日本に帰国が決まっている空海に伝授されたのは奇跡だとしか言いようがありません。


806年、空海は大量の経典や仏具、更には当時最先端の医学、薬学、建築学、地学、土木工学などの知識を携え、中国東海岸の寧波を立ち、帰国の途につきます。博多の田ノ浦に帰着後、太宰府で1年を過ごし、持ち帰った品々の目録を朝廷に送りました。その後2年間、現在の大阪府にある槙尾山で過ごし、密教の理論構築に励みます。最終的に天皇から上京の官符を得て、京の高雄山寺に入りました。帰国と入京の時期が3年近くもずれているのは、当初定められた20年の留学を、2年に短縮して帰って来たことや、朝廷での政治紛争、京での空海への良い噂の流布を待ったことが原因と考えます。


1200年前に真言密教を開いた空海の足跡②へ続きます。『1200年前に真言密教を開いた空海の足跡②』『1200年前に真言密教を開いた空海の足跡①』東寺の五重塔の初層内部には、空海が唐から持ち帰った密教による極彩色に彩られた空間が広がっており、重厚な外観からは…リンクameblo.jp




(参考)

書籍では、司馬遼太郎の「空海の風景」、空海の「即身成仏義」および「般若心経秘鍵」、松長有慶の「高僧伝 空海」、梅原猛の「空海の思想について」、高神覚昇の「般若心経講義」。


映像では、NHK 2019年6月26日放送、1984年東映制作のドラマ「空海」、NHKスペシャル「空海の風景」、NHK「空海への道」、空旅中国「空海のまわり道」等を参考にしました。


空旅中国「空海のまわり道」およびNHKスペシャル「空海の風景」は、YouTubeで視聴可能。