王 翦 (おうせん 生没年不詳)

 

 

今回のブログに先立ちまして、過去に

 

『国士無双』と呼ばれた天才は何故死なねばならなかったのか -理想的な主従関係って何だ?-

https://ameblo.jp/kazunari-itoh/entry-12242420316.html?frm=theme

 

において漢帝国建国の大功臣で、皇帝 劉邦(りゅうほう)より「百万の大軍を自在に操り、戦えば必ず勝ち、攻めれば必ず獲る」と激賞されながらも、最後は粛清されることになった 韓信(かんしん BC230頃-BC196) を取り上げました。

 

 

韓信の死の要因については、蒯通(かいつう)と言う人物が 韓信 に忠告したの次の言葉に集約されていました。


―「あなたは漢王(劉邦)との関係を良いと信じ込んで、大業を立てようとお考えのようですが
あなたが忠誠を捧げて漢王に交わりを求める気でも、それに対し漢王があなたに危害を加えないなどと決めてかかるのは誤りであります。

 

あなたの功績は天下に二つとなく、その雄略は不世出です。
いまや主君を畏れさすほどの威勢と、恩賞を与えきれない程の功績をお持ちです。

 

臣下の位にありながら、主君を畏れさせる威があり、名は天下にとどろいている、
傍目にもあなたの身は危険この上もありません。」

 

 

そして 韓信 が捕縛される際に放った言葉

「校兎死して走狗煮らる (狩るウサギがいなくなれば 次は猟犬が煮て食われることになる)」

「必要なくなったものは捨てられる」

という意味の慣用句として現代に伝わっています。(もともとは春秋戦国時代の 范蠡 の言葉)

 

 

さて前置きが長くなりましたが

今回の話はこの韓信の死(BC196年)から遡ること30年前のこと。

秦王「政」(嬴政 えいせい 後の「始皇帝」 BC259-BC210)による中華統一に最大の軍功を為した大将軍がいました。

 

 

それが冒頭に紹介した 王 翦 です。

王 翦 は 韓信 同様、戦場においては常勝将軍であり名声は後世まで伝えられるものでありましたが、彼の持つエピソードは 韓信 のそれとは好対照であり、非常に興味深いものです。

 

 

・「警戒されたようだったので隠退します。」

 

王 翦 とその息子 王墳(おうほん) の活躍によっては を滅ぼし王を辺境に敗走させ、いよいよを撃破すれば中華統一事業も大詰めを迎えるという段階にまでやってきました。

 

 

「キングダム」を読んでいる人であればお馴染みですが、秦には 李信(りしん 生没年不詳) という若手の血気盛んな将軍がいました。

彼は燕を責めた際に手勢数千で秦王  が憎んでいた燕の太子を捕らえ、それにより 政 の厚い信認を得ていました。

 

 

政 は李信に 「楚を平定したいのだが、どのくらいの兵力が必要だろうか」 と尋ねます。

李信は「20万もあれば十分だ!」と答えます。

 

 

 

政 は同じ質問を王 翦 します。

王 翦 は「いや、60万はなければ無理でしょう。」 と答えます。

 

 

それを聞いて、政 は「王将軍よ、老いたものだな。なんという臆病なことよ。それに対し李将軍は壮勇だ。その言や好し。」

と言って、李信 と 蒙恬(もうてん)に兵力20万を持たせ、楚討伐の命じます。

 

 

この20万、60万、という人数は如何にも誇張されたものであろうとは思いますが、史記にはそう書かれていますので話半分と思って読んでください。

 

 

因みにこの時 王 翦 が口にした「兵力60万」は、後で出てきますが秦の最大兵力でした。

それを与えるということは逆にいえば国内の兵力が空になってしまうということです。

政 はそのことで何か別に思う事があったのかもしれません。

 

 

とにかく 王 翦 はこの後、病気になったと称して郷里に帰り隠退してしまいます。

 

 

 

さて中国大陸は日本よりも遥かに広大ですので、行軍にも戦闘にも時間が掛かります。

李信 が楚討伐に出発してから2年が経過し、蒙恬と別動隊を組みながらそれまで順調に戦勝を重ねていた 李信 が 楚軍に対して指揮官クラスの将7人をも失うほどの大敗を喫してしまいます。

そして勢いに乗じた楚軍は秦に対して進撃を開始します。

 

 

この知らせに 政 は激怒しますが、怒っていても仕方ありません。

自ら 王 翦 の隠退地に駆けつけて詫びます。

 

 

「余の不明で将軍の意見を聞かず、李信 は楚に大敗し、そして楚軍は今まさにこちらに進撃中だという。

将軍が病体であることは承知しているが、どうか余を見捨てないでほしい。」

 

「そうは言われましても私はこの通り老いぼれ、病気で疲弊しています。大王よ、どうか他に然るべき賢将をお選びください。」

 

「やめてくれ、それ以上言ってくれるな。」 (というやり取りが史記には書かれているが、誰か見ていたのだろうか?)

 

 

そこで 王 翦 は態度を改め言います。

 

「大王がどうしても私に、というのであれば60万の軍勢をお預けいただかなければ無理です。」

 

「すべて将軍にまかせよう。」

 

 

こうして 王 翦 は60万の軍勢を率いる大将軍となり、楚討伐に向かうことになったのです。

 

 

 

・「私小物ですので、池のある美しい田園つきの豪邸が欲しいです。何度でもお願いさせて貰います。」

 

 

王 翦 が楚軍討伐に出発する日のこと、政 は自ら親しく灞水(はすい)のほとりまで見送りますが

史記によると 王 翦 は 「行くゆく美田宅園池を請う事甚だ衆(おお)し」 と書かれています。

 

 

道中ずっと恩賞として「池のある美しい田園がついた豪邸」を 王 に要求していたのでした。

政 にすれば「今は恩賞の心配よりも戦の心配をしろ!」と言いたかったことでしょう。

 

 

しまいには

「将軍、もう行かれよ。どうして余が将軍に経済的な心配をさせようか。」

と言われます。

 

 

そこでも 王 翦 は委縮するどころか即座に

「いやいや大王にお仕えする将軍はこれまで功あっても封侯の栄誉を賜ったためしがありません。

私は大王から恩顧を受けておりますうちに、頂戴できるものは頂戴して子孫に残しておきたいと思います。」

と返すものなので、 政 もそのあまりの調子の良さに爆笑してしまうのでした。

 

 

王 翦 の「おねだり」は戦場である函谷関に着いても続きます。「五輩」とあるので5回続いたという事でしょうか。

これには流石にある人が見兼ねて

 

「将軍のおねだりも度が過ぎましょうぞ。」

 

と忠告します。

この時の 王 翦 の返答こそが、まさに冒頭の 韓信 とは好対照で、器量人たる 王 翦 を象徴するセリフとなります。

 

 

「そうではない。秦王は冷酷で他人を信用できぬ人間だ。

秦の国内を空にし全軍を私に委ねた今、王が心安らかであるはずがない。

子孫のために財産のことばかり気にかけているように見せなければ、私は却って逆心を疑われることになるだろう。」

 

 

常に調子のいい風に振舞っていても、

王 翦 は自分が王から「疑われる立場にある」ということを片時も忘れてはいなかったのです。

 

 

だからこそ、最初に自らの「兵60万が必要」という意見が採用されなかった理由も理解でき、

また、王の信用が自分よりも若く勇猛な 李信 に移っていることを感じ取った時点で隠退を決意したのでした。

 

 

それを踏まえた上で彼が恩賞に求めた「美田宅園池」も いかにも「俗」 という意味で絶妙なものであったと思えます。

 

 

乱世の時代、敵国を滅ぼした将軍が征服地を治める「王」を名乗ることを主君に求めるのはよくあることです。

王 翦 ほどの戦功の持主であれば当然、自身も「王」を名乗りたいと考えるのは自然なことです。

 

 

冒頭の 韓信 も斉を攻略した際、「斉王」を名乗ることの許しを劉邦に求めています。

しかし 王 翦 はそれをやると 政 から逆心を疑われることを理解していました。(実際、劉邦も 韓信 の要求に最初は激怒した)

 

 

逆に、あまりに欲のない恩賞を求めたのであれば、

それはそれで「本心が別の所にあるのを隠そうとするためではないのか?」と疑われたことでしょう。

 

 

敢えて「俗」な要求を繰り返すことで自らを小物の如く見せかけ、王の疑いを逸らす。

これは本当の小物には出来ないことです。

王 翦 という将軍は真実、稀有な器量人だったのです。

 

 

因みに 秦王政 に関する人物評には兵法家の 尉繚(うつりょう) の言葉で

 

「虎狼の心あり。困窮している時は甘んじて人の風下に立つが、いったん羽振りがよくなれば人を人とも思わない男。

今(乱世の最中)でこそ素浪人である私にもへりくだった態度を見せてはいるが、やがて天下をとれば、全てを思うがままに取り仕切ろうとするだろう。いつまでも付き合える相手ではない。」

 

というものがあります。

「焚書坑儒」の言葉もある通り儒者を生き埋めにしていますし、仕えるのに難儀をする王であったことは事実のようです。

 

 

 

この後、 王 翦 は見事に楚を打ち破ることに成功し、王の信認を失うことなく「美田宅園池」を手にします。

 

 

そして秦による中華統一後の始皇帝の施政下、そして始皇帝が死した後に再び訪れる動乱にあって、

数多の名士が非業の死を遂げていく中、 王 翦 は豊かな隠退生活の中で人生を全うするのでした。

 

 

 

乱世にあって仕える主君の人間性を熟知し、財産を築いた上で生を全うする

 

王 翦 の処世術は現代を生きる私達にとっても非常に興味深いものがあります。