韓信(BC230頃~BC196)...


 

皇帝となった劉邦は、自らが天下を獲った要因として3人の傑物の名を挙げます。
その中で

「百万の大軍を自在に操り、戦えば必ず勝ち、攻めれば必ず獲る」

と言わしめた人物が 韓信 でした。

 

 

「天下に双(なら)ぶ者なき国士」として
(やはり傑物として名が挙がった) 蕭何 の強い推挙によって
漢の大元帥となった人物です。
劉邦が天下を獲る事が出来たのは、一重に彼を登用したことにありました。
(因みにそれまでは、項羽の下でも劉邦の下でも日の目を見る事が出来ずにいた。)

 

 

では韓信は、その大きな功績に見合った待遇を受け
ゆくゆくまで建国の英雄として讃えられたか
それは 「否」 でした。

 

 

―これについて注釈すると、そもそも劉邦が皇帝となってからしたことといえば、
     それまでの功臣を片っ端から粛正することだったのだ―

 

 

劉邦は皇帝となった後、
韓信を彼の故郷である「楚」の王に任じましたが
翌年には「韓信に謀反の企らみあり」という部下の讒言に従い
謁見に赴いた韓信を捕らえます。
(韓信が同郷の友人だった敵将を一人匿って劉邦の不興を買ったという事情もあった。
因みに韓信はそれを心配して謁見に際しその友人の首を持参している。)

 

 

この時の韓信のセリフが
「果たして人の言った通りだったわ!
”校兎死して走狗煮らる 高鳥尽きて良弓蔵(しま)われ 敵国敗れて謀臣亡ぶ”
天下が定まって 私も用無しというわけか!」
でした。

 

 

「校兎死して走狗煮らる (狩るウサギがいなくなれば 猟犬が煮て食われることになる)」
は 
「必要がなくなったものは捨てられる」 
という意味の故事として現代に伝わっています。(もともとは春秋戦国時代の范蠡の言葉)

 

 

韓信は殺されはしませんでしたが(大体が濡れ衣だし)
兵権を持たない「侯」(「王」よりも下の位)へと降格され
建国の英雄としてのプライドを破壊され、
かつての部下達と同列の扱われるうちに、すっかり劉邦への忠誠心を失くします。

 

 

そして5年後に、本当に謀反を起こそうとしますが
自分を劉邦に推挙してくれた恩人である 蕭何 に騙され、捕らえられ
そして三族皆殺しとなるのでした。
 
 

天下の英傑としては、あまりに悲惨な末路でありましたが
この韓信の将来の不幸を見通し、忠告していた者がいました。

 

 

蒯通という人物で、
彼はまだ天下が定まらぬ頃、
劉邦の別動隊を率いながら各地を平定し
項羽配下の宿将を討取り、天下の要所である「斉」を治めるに至った韓信に対し
「このまま天下を三分し、ゆくゆくは天下の盟主となるよう」勧めます。

 

 

韓信はこれを断ります。
―「漢王(劉邦)は甚だ私を手厚く遇してくれておる。
自身の車に乗せ、
自身の着衣を着せ、
自身の食事を食わせてくれた。

 

俗に言う、『人の車に乗る者は、その人の憂いを担え。
人の着衣を着る者は、その人の憂いを抱け。
人の食を食らう者はその人のために死ね』と
利のために義に背くことは出来ない。」

 

 

蒯通は
―「あなたは漢王との関係をよいと信じ込んで、大業を立てようとお考えのようですが
あなたが忠誠を捧げて漢王に交わりを求める気でも、それに対し漢王があなたに危害を加えないなどと決めてかかるのは誤りであります。

 

あなたの功績は天下に二つとなく、その雄略は不世出です。
いまや主君を畏れさすほどの威勢と、恩賞を与えきれない程の功績をお持ちです。
いまさら項羽についても項羽は信用せず、
劉邦の元に戻っても、劉邦は恐れおののくだけでしょう。

 

臣下の位にありながら、主君を畏れさせる威があり、名は天下にとどろいている、
傍目にもあなたの身は危険この上もありません

 

功はなり難くして破れ易きもの、時期は得難くして失われ易きものです。
時 な る か な 時 。
時は二度と参りません。どうかよくよくお考えください。」

 

 

 

 しかし結局韓信は、首を縦に振りませんでした。

 

 

 

 

そして時は過ぎ
末期の言葉として
「蒯通の言葉を聞いていなかったことが悔やまれる…」
と言うのでした。

 

 

 

 

韓信は間違いなく、軍事の天才でした。
しかし、傑出した天才というものは
えてして、それ以外の分野に関しては関心が薄かったりするものです。

 

 

彼が疎かったものは 後方にいる人々の心
人は他人の才を 妬み 怖れ 抑えようとする生き物だということへの理解でした。

 

 

特に、天下を獲った人物にとって
自分は危険人物であるという自覚が足りていませんでした。

 

 

しかし韓信と言う人物は
劉邦に抜擢されるまでは、不遇の人生を歩んできました。
自分自身の才覚には強い自信を持っていながら、
それを活かす場が与えられない事を常に不満に思ってたので

 

 

劉邦から抜擢され、大軍の指揮を任されたことを素直に喜び
功績を上げることに己の存在意義を見出したのだと思います。

 

 

ですから、それを否定することは、
己の生き方さえ否定されてしまうような気持ちであったのかもしれません。

 

 

反面で、仁情に欠ける劉邦の人格、
韓信が集め、鍛えた上げた軍団を度々奪っていく事
これから攻め入る先の「斉」を、こちらに連絡なしで他の人物をやって降伏させてしまう事
国を幾つも攻め獲っても、「なんですぐに援軍を寄越さないんだ」と文句を言われ
功績に報いてくれない事
など、劉邦に対する違和感を持っており
(もともと付き合いが深いわけでもなかったし)

 

 

それが「垓下の戦い」で当初、韓信が軍を動かさなかった要因となったのではと
私は思っています。

 

 

不遇の天才であった韓信の人生と 主君との関係は
現代に生きる私達にも教訓めいたものを持っているように私には思えます。