劇場の楽屋で、私は化粧前に座り、自分の足…
ダニエルから貰った…既に爪先の破れたシューズをまた、見つめていた。
化粧を済ませ、衣装を身に付け、既に身仕度は完了している。
『この数週間のリハーサル、そして前回の舞台の成果、その全てが今夜の本番で結実します様に!』
あの…
若き日の誠実な緊張感を、私は今も尚、ハッキリと覚えている。
あの日あの時から数えて、私は筆舌し難い緊張感を、幾度も経験して来たが、このニューヨークでの体験ほど、神聖とも言える緊張感を味わった事は無い。
経験の浅い若輩者だからこそ、全身全霊をかけて打ち込める。
後先を考えない集中力。
一点の迷いもない強さ。
単純で、怖さを知らない強さ。
あの時の私には、それが有り…
そして…
それしか無かった。
「KAZUMI!お客様よ!」
誰かが不意に、私の静寂な緊張を破った。
『客?』
私は立ち上がった。
『あ…そうか!お母さんだ!』
私は、初回の公演から約2週間と言うもの、母がニューヨークに来る事をすっかり忘れていた。
母は昨日だか、今日だか、ニューヨークに到着していたのだ。
私は、今日の公演を観に来てくれる仲のいい友人に頼み、母を劇場まで連れて来て貰う算段をつけていたのだった。
私は楽屋の外の通路に出た。
楽屋見舞いに訪れた人達で、楽屋前の狭い通路はごった返していた。
私が、思う様に身動き取れずに居ると…
「KAZUMI-BOY!」
と、聞き覚えのある声が私を呼んだ。
私が母の引率を頼んだ友人のKである。
彼は180㎝を越す長身で、彼の頭は人混みの中から一つ上に飛び出していた。
私は人混みを掻き分けながら、彼の方へと進んで行った。
Kが自分の脇辺りを下向きに指差すのが見えた。
最後の人の壁が割れると、彼が指差す場所に懐かしい母の姿が現れた。
母の姿を見るのは、ニューヨークに旅立ったあの日、成田空港以来である。
とは言え、ほんの1年半程しか経っていないのだが、何故か…
まるで10年余りも会っていなかったかの様な錯覚に捕らわれた。
そしてその錯覚は、私だけではなく、母をも同じ様に捕らえていたのである。
そして気がつくと私達は…
無言のまま抱き合って涙を溢していた。
この時の涙が何なのか…
私には今もって、上手く説明する事が出来ない。
母には、殆んど毎日の様に手紙を書いて、自分の近況を伝えていたし、写真もマメに送っていた。
離れていても、お互いの様子は分かっていた筈である。
しかし、何やらお互いに感無量になってしまったのだろう。
ほんの一瞬…
私達の周りから、一切の音が消えた。
なんの言葉も無く、ただ抱き合って涙を溢す。
その光景にKが貰い泣きをしていた。
私は母の身体を離すと…
「ありがとう、K!お母さんを客席まで連れて行って。」
と、Kに頼む。
「頑張ってね!」
母が涙をぬぐいながら微笑んだ。
この時、母の胸中に去来する思いが私にも伝わった。
「うん。」
私はそう答えると、母とKを見送り楽屋に戻った。
再び化粧前に座り、頬に出来た涙の跡をファンデーションで消す。
さぁ…
私は私の目的を果たさなければ!
私がこのニューヨークに、やって来た目的を完了させるのだから。
「5分前だ。スタンバイ!」
舞台スタッフの声が響いた。