私達は一度、楽屋に引き上げた。
音響システムの再チェックと修復に時間を割くためである。
このまま闇雲に押し進めてもらちが開かない…と言う結論に至ったらしい。
確かに…
既に三回も音がストップしてしまっている訳だし、四度目に上手く行く保証はない。
起きてしまった事は仕方がないが、何ともやり場のないモヤモヤとした気持ちは、なかなか消えるものではなかった。
私は自分の化粧前に座ると、そのまま、まんじりともせずにいた。
何を考えるでもなく、ただボーッと一点を見つめていた。
もはや、緊張感の欠片も残ってはいなかった。
まるで終演したかの様な気さえしていた。
みんなは何やら、気分転換のお喋りに興じていたが、私の耳には何も届いていなかった。
と…
ふいに、誰かが私の肩に手を置いた。
いつの間にかC・Cが私の傍らに立っていた。
C・Cはタバコをふかしながら言った。
「ヘイ!さっきはいい顔してたわね。」
「え?」
「あたしと目を合わせた時よ。カズミにあんな表情があるなんて思わなかったわ。」
「どんな顔してたかなんて、自分じゃ分からないよ…。」
私は思わず、目の前にある鏡を見る。
「いい目をしてたわ。色気のある大人の目よ。」
C・Cは私の肩に置いた手に力を入れ、私の肩を掴んだ。
「日頃は子供っぽいのに、アンタは踊り出すと一変するのね。リハーサルを通して、それは分かってたつもりだったけど、さっきの顔にはやられたわ。なかなかセクシーだったわよ。」
C・Cは私の肩から手を離すと自分の化粧前へ向かって歩き出したが、ふいに振り返ると…
「いい?次もあの顔をあたしに頂戴。あたしも今度は負けないから。」
と笑顔で言った。
私は少しの間、彼女の背中を見つめていたが、それがC・Cの私に対する励ましだったと気付いた。
三回のシステムダウンによるアクシデントに落ち込む私を励ましてくれたのだ。
C・Cは一見黒人であるが、褐色の肌は真っ黒ではない。恐らくは幾つかの血が混ざっているのだろう。
綺麗な珈琲色の肌に、ヘーゼルアイ、クシャクシャと縮れた柔らかい髪を長く伸ばし、独特の雰囲気が非常に魅力的な女性である。
『ありがとう、C・C!』
私は、再び化粧前の鏡に向かい、鏡の中の自分と対峙した。
『そうさ!まだ始まってもいないじゃないか!萎れてる場合じゃないぞ!』
私は両手で頬をパンパンと叩いた。
『観客には悪いけど、あのアクシデントは、舞台稽古の延長だと思えばいいさ!』
勿論、元々私の中の性格的な要素も多分にあるだろうが、私はこのニューヨーク時代に、こうした然り気無い優しさから、至る場面で気持ちの切り替え方を教わって来た様に思う。
ある時はシャザームの現場で、またスタジオでのレッスンやスカラーとしての仕事を通して、こうした何気ない触れ合いの中で、様々な形で気持ちを切り替える術を身に付けてこれた様に思う。
私は、気合いを入れ直す為にウォーミングアップを始めた。
『やるさ!これをやる為に日本から来たんだ!こんな事で悄気てる場合か!』
そこへ、舞台スタッフが顔を出した。
「みんな!10分後に仕切り直しだ!」
皆一斉に舞台スタッフを見た。
「音響の方は大丈夫なの?」
「ああ!」
舞台スタッフは何やら専門的な説明を始めたが、私にはよく解らなかった。
『10分後…』
私は壁に掛けられた時計を見た。
約30分間の上演の中断である。
俄に色めき立ち、楽屋の雰囲気が変わった。
此処に集まったダンサー達は、国籍もキャリアもバラバラである。
舞台キャリアの多いC・Cやダグの発言や居住まい、そして素行は、知らず知らずの内にキャリアの浅い連中を引っ張った。
一度脱いでいた衣装を着て、化粧を直す。
ダンスシューズを履き、紐をきつめに結ぶ。
私達は楽屋を出て、舞台袖へと向かった。
客席の方からは、何やら場内アナウンスが流れている様だったが、内容までは聞き取れなかった。
私は、暗いホリゾント裏の通路を歩き上手から下手へ向かう。
不思議な高揚感が、身体の奥から湧いてくるのが分かった。
『やるさ!この舞台の為に日本から来たんだ!』
私は、生まれて初めて、落ち着いた緊張感と言うものを体験していた。
先程の様な、心臓が口から飛び出しそうな無駄な緊張はなく、気持ちが穏やかだった。
しかし、体内に感じるのは、針の様に尖った緊張感と集中力である。
とても不思議な感覚だった。
『こんなに緊張しているのに、落ち着いた気持ちを持てるのか!?』
私は更に、不思議な確信を覚える。
『やれる!今迄で…いや!今日まで生きて来た中で、一番踊れる!』
何処から来る自信かは判らなかった。
舞台袖に着く。
私は深く息を吸い込んだ。
客席の明かりが落ちた。
散々途切れた音が、四度目の正直に向かって流れ始めた。
ステージに明かりが入る。
きっかけのフレーズ…
私はステージに出て行った。
※ホリゾント:舞台一番奥にある、照明が当たる幕の事。