私は愕然とした。
そこには、私への不平不満が延々と、悪口雑言の限りを尽くして綴られていたのである…。
彼に取って私は、諸悪の根源であるかの様だった。
文章の詳しい内容は、頭に入らなかった。
只、如何に彼が私を嫌っているか…
理解出来たのはそれだけである。
しかし、一つだけ覚えているのは…
『あんな、ド下手くそがスカラーだなんて、俺はもう、絶対にステップスなんかでクラスは受けない!あんな奴をスカラーにするスタジオなんか信用出来ない!』
と言う一節である…。
私の心臓は早鐘の様に鳴り響き、足からは力が抜けそうであった。
正確な内容は覚えていないのだが、彼が私の何を嫌っているのか?その具体的な理由は書かれていなかった様に思う。
私は、ノートを閉じた。
そのままにしておこうか?
そうも考えた。
しかし私は、T君は敢えて、私に見せるつもりだった…と理解したのである。
彼がウッカリと、しかもわざわざこのページを開いて出掛けて行ったとは考え辛かった。
ならば、応えなければならない。
『キミが読ませたかったモノを、私は読んだよ。』
だから私は、ノートを閉じたのである。
私は、またしても邪魔者になった。
どうしていつも、邪魔者になってしまうのだろう?
必死に考えた。
まだまだこれからも、一緒に生活しなければならないのである。
なんとかしなければならない。
彼の日記にあった、ほんの少しの手懸かりは…
彼がバイトから帰って来る時分には、寝ている事。
そうすれば、彼は一人の時間が持てる。
そして、部屋の掃除をマメにする事。
綺麗好きな彼を苛立たせてはならない。
無駄口を聞かない。
私の声や言葉を極力、彼に聞かせない。
私の言葉は彼に取って、お節介に聞こえているらしい。
まるで『戒厳令』であった…。
私は他人との共同生活の難しさを、心底思い知った。
そして、今度は私が膨大なストレスを抱え込んだ。
部屋に帰らない日が増えた。
42丁目、タイムズスクエアから少し脇にそれた雑居ビルにあった古い映画館で、よく夜を明かした。
古い映画の何本立てかを3ドルから5ドルで、見せていたのである。
客など殆ど居なかった。
居たとしても、眠りこけていたり、薬でラリっていたり、ホームレスだったり。
今から思えば、随分と危険な真似をした物である。
当時、ニューヨークにあった数件のディスコやクラブにも出掛けた。
各ディスコが配るインビテーションカードがあれば、只で入場出来た。
そうしたインビテーションカードは、よくステップスの受付に積まれており、それを利用した。
逆に、T君がバイトの休みにクラブに出掛ける時は、私は部屋に帰った。
当然Kさんは、そんな私の素行を気にかけたが、真の理由など言えなかった。
私が部屋に帰らない日に、T君は、Kさんに何か話したかも知れないが、私は構わなかった。
出来るだけ『邪魔者』は消えていた方がいい…。
それしか思い付かなかった。
こうした生活が半年ほど続いた。
今思い起こしても、この当時の生活の痛み…と言うか…切なさ…と言うか…。
なんと表現したらいいのか、しっくり来る言葉は見当たらないが、決して忘れる事が出来ない思い出である。
結局、この後、T君はロスに行く事になり、またKさんは日本に帰国する事になって、この共同生活は幕を降ろした。
そして、ロスに行ったT君は、二~三年後、不慮の交通事故で亡くなった。
彼の訃報を聞いたのは、私が日本に帰国して間も無くであったと記憶している。
つまりT君とは、和解する事なく、永遠の別れとなってしまったのである…。
ニューヨーク生活の中でも、最も辛い思い出と言えるかも知れない…。
あの生活から私は、何を学ばなければならなかったのだろうか?
明確な答えは、今もよく分からない私である…。