半ば金切り声で母は言った。
『すぐに帰ってらっしゃい!』
時計を見ると、既に10時近い。
もう新幹線は走っていない。
その事を告げると母は
『今夜が峠なのよ!ダメかも知れないのよ!』
今夜が峠…
そんな台詞は、ドラマの中でしか聞いた事がない…。
私は、病院に駆け付けてくれている私の再従兄弟(はとこ)に電話を変わって貰った。
私のはとこと言うのは女性で、看護婦をしている。
私とは年齢は離れており、母と同じくらいの歳で、私は彼女に取り上げて貰った。
彼女は親族に何かあれば、必ず病院に駆け付けてくれる。
この時も父の搬送先の病院に駆け付けてくれていた。
私は彼女から、父の詳しい状態を聞いた。
非常に危険な状態であると言われた。
『状況が状況だから、帰って来れるなら帰ってらっしゃい。』
非常に穏やかな声が、逆に事の深刻さを強調している。
私は一度電話を切ると、Iさんの部屋へ向かった。
心配してくれている。
事情を話さなければならない。
『代わりのインストラクターを呼び寄せるよ。今夜中に連絡取れれば、明日のワークショップを代わって貰おう。』
Iさんはそう言うと、部屋の電話に手を伸ばした。
『待って!』
私はIさんの手を止めた。
私は、迷っていた…
帰るべきか?ワークショップを続けるか?確かに迷っていたのだが、しかし、私の為に集まってくれた生徒さん達と、このワークショップを開催する為に尽力してくれた、Iさんや遠鉄スタッフの事を思うと、やはり帰る訳には行かないと思った。
『大丈夫!やるから。キャンセルはしないから。』
Iさんは逆に狼狽えた。
彼の立場からすれば、当然だろう。
ワークショップをキャンセルせずに済めば何よりだが、私が父の死に目に会えない事にでもなれば、彼は非常に責任を感じるだろう。
しかし、私が帰れば、やはりそれなりの心労を抱える訳である。
これまで数回のワークショップを開催してくれた彼に、迷惑をかけたくはない。
何より、集まってくれた生徒さん達をガッカリさせてはいけない。
この判断が『正しい』『正しくない』で言うなら、恐らく『正しくない』であろう事も分かっている。
私は自分の部屋へ戻ると、再び受話器を取った。
電話に出た母は、私が下した決断に再び金切り声を上げた。
『お母さん、夜中の病院で怒鳴らないで!』
私は、決断の理由を話したが、母は理解してくれなかった。
電話口の相手が変わる。
はとこだった。
『後悔しないわね?それでいいのね?』
彼女の声は穏やかで静かだった。
『うん。明日のワークショップが終わったら、急いで帰るから。お父さんを頼みます!』
はとこは
『分かった。あたしも一生懸命看病するから。アンタはしっかり生徒さん達の期待に応えてらっしゃい。』
私は礼を言うと、受話器を置いた。
その途端に涙が溢れて、私は一晩中泣いた。
母は、はとこと電話を変わる前、最後にこう言った。
『自分の父親よりも、他人を取るのね!』
と…。
私は母に、こう言った。
『お母さんのお父さんは、まだ元気じゃないか!今の俺の気持ちなんか、お母さんには分からないよ!こうしなきゃならない気持ちなんか、絶対に分からない!』
と怒鳴り付けてしまった。
母方の祖父は、当時まだ健在だった。
母は絶句し、はとこに受話器を渡したのである。
辛かった。
しかし同時に私は、自分がどんな仕事に就いたのか?と言う事を初めて、自覚した。
自分で一度こういう決断を下したからには、やるしかなかった。
しかし、その晩起きた事が、私を苦しめた。
泣き疲れてボーッとベッドに腰掛けていた時である。
『ドン!ドン!ドン!』
誰かが部屋のドアを勢いよくノックした。
私はIさんかと思い、ドアを開けた。
誰も居なかった。
『?』
私は、人が隠れる場所など無い事を確認し、ドアを閉めた。
ベッドに腰掛ける…。
『ドン!ドン!ドン!ドン!ドン!』
私は再び立ち上がり、覗き窓から表を見たが、誰も居ない。
ドンを開ける…
やはり誰も居ない。
『…………………。』
私は理解した。
『そうか…。あの吐き気もあんた達か…。』
ドアは一晩中鳴り響いた。
時に諭す様に優しく。
時に怒った様に激しく。
どこからも苦情は来ない。
恐らく、私にしか聞こえていないのだろう…。
『ドン!ドン!ドン!ドン!ドン!ドン!ドン!…………………』
『帰らないよ!そう決めたんだ!許して…御先祖様!』
私は再び泣き出した。
《続く》