以前、チラリと書いたが、私は役者を目指していた時代がある。
それは、小学生の頃から始まり、中学生になってからは、ありとあらゆるオーディションを受け捲っていた。
児童劇団から子役オーディション、声優オーディションからモデルのオーディション…etc.
役者になるべく、とにかく芸能界を目指していた。
例え何等かのオーディションに合格しても、母からの猛反対に遇い阻止され続けていたのだが…。
ダンスを始めたのは、高校生になってからであるが、その当時の私に取って『ダンス』とは、オーディションを有利にする為のアイテムの一つに過ぎなかった。
私は演劇部に所属していたが、その時に部長を務めていたのが、一年上の先輩で『一所懸命』と言う言葉を私に教えてくれた人である(記事:一所懸命参照)。
この先輩がある日、部に『特別講師』として連れて来た人…
それは、タカラジェンヌであった。
正確に言えば、退団したばかりのタカラジェンヌである。
この人こそが、私に最初にダンスを教えてくれた…
言わば、現在の私『KAZUMI-BOY』の産みの親…母である。
私のダンスの母は、元雪組の『茜 真弓』と言う娘役である。
先輩が引き合わせてくれたこの出逢いがなければ、現在の私は無い。
そして、茜先生が私のダンスの才能を見い出してくれなければ、今の私は此処には居ない。
当時の私は、芸能界よりも舞台に惹かれており、劇団四季への入団を目指していた。
先生は、ご自宅から少し離れた場所でダンスを教え始め、私は先生の元へ通い始めた。
先生は、私をとても可愛がって下さり、ジャズダンスのみならず、バレエ、タップ、そして私の四季受験が近くなると、歌までみて下さった。
たった月謝1万円で、である。
更には、この月謝で私は一日中稽古場にいる事を許された。
高校時代の殆どの時間を、私は学校ではなく、茜先生の下で過ごした。
卒業に必要最小限の出席日数は登校し、後は先生のSTUDIOに入り浸りだった。
劇団四季のオーディションが、卒業式と重なり、私は卒業式をも欠席した(笑)。
私が四季を受験した年は、研究生の下に新設された『アクターズ スタジオ』と言うシステムで学ぶメンバー募集をしており、私はこの『アクターズ スタジオ』の一期生に合格した。
私はこの頃、先生に一度だけ宝塚の舞台に連れて行って頂いた事がある。
月組の『翔んでアラビアンナイト』と言う作品だった。
勿論当時の私は、よもや宝塚に振付師として訪れよう事など、夢にも見ない頃の遠い昔のお話である(笑)。