9/25九州の暮らし26位 9/28 40位
🍐娘たちへの備忘録 22.3.23/12.
先日、とてもありがたいことに、八女郡在住の旧友が、地元のシャインマスカットを
送ってくれました。
久留米市の梨、かおり梨 & あきづき は、遠縁の方からなのですが、箱を開けると、
洋梨のような甘い香りが、ふわ~っとリビングに!
どちらも、とても美味しくいただきました。
食べごろシールが貼ってありましたよ〜
梨畑近くの 檜の枝 が添えられて...
九月になると庭のここかしこに咲く、薄紫色のヤブランは、三十七年前に亡くした
次女に思いを馳せる、感慨深い花です。
今回のテーブルは次女を偲び、薄紫のお花をイメージしたセッティングにしてみました。
また久々に、グリム童話の かえるの王様 もいらしたのでご一緒いたしました〜。🐸
🇩🇪 Porzellanmanufactur Plaue
《プラウエ窯 PMP》
設立1817年
Back Stamp 1973〜1990年
かえるの王様が書かれた ドイツ とご縁があるのは、リケジョの娘です。
二十歳の頃参加した、LMU München大学の語学研修時、大変お世話になったのは、
のどかな Amerang 村 のご家族なのですが、新婚旅行で伺った時も、所有の山小屋
に連れて行ってくださるなど、とても歓迎してくださいました。✈️
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20211214/23/kazuko1955/20/c9/j/o1080054015046492306.jpg?caw=800)
カップ&プレート&グラス 《マイセン》
White ダマスク織りTクロス 236×180cm
《Georg Jensen》
そういえばドイツでは、五十歳から節目ごとに盛大にお祝いをすることもあるそうですね。
Amerangで家具職人だったご主人も、五十歳のお誕生日には、ご近所さん百人ほどを
ご招待し、ご自宅でお祝いなさったそう (日本では他者が祝ってくれることが多いですね) 。
お祝い時、Amerangでは、玄関先にボロになった袋を置くのだそうですが、それは、
「こんなに齢をとりました」 という意味もあるのだとか。
ご主人、「すっかり齢をとってしまったよ...」 と話してあったそうですが、(汗)
今でも、ふっくら優しい奥さま達と、穏やかにお暮らしのことでしょうね (奥さまとはスカイプで)。 💕
シェルディッシュ 《クリストフル》
ヘレンド 透かしプレート
《Rothschild Oiseaux / ロスチャイルドバード》
夫の同級生の書家の方から、書展に出品なさっていた篆書の掛軸、
行運流水(こううんりゅうすい) を頂戴しました。
語源は、中国の文章家 蘇軾(そしょく) の書物から。
心より、感謝申し上げます🙇
↖︎ 20年ほど前の ナイフレスト も
庭の 《ヤブラン》
庭の 《サルスベリ》
🇩🇪 プラウエ窯 バックスタンプ
🇩🇪 Porzellanmanufactur Plaue プラウエ窯
1817年設立/当初の工房名は Von Schierholz Plaue?
プラウエ磁器工場は、1817年に設立されました。有名なテューリンゲンの工房は、ゴットフリート・ヘンクラインの提案で、1849年以来生産されていた「リトファン」で世界的な名声を獲得しました。 二千を超える作品からなる、この専門分野のモデル プールは、製造所のアーティストによる、新しいモチーフで常に拡大されています。 当時は窓絵やランプシェードの形をしたリトファンは、今日ではリトファンランプとして、ボックス、ボウル、鏡などの範囲を補完し、愛好家から高く評価されています。生産は完全に手作業で行われます。オリジナルに基づくモデリングと、手描きの信憑性が保証されています。
......................................
マニュファクチュールは、1816年にホイッカー兄弟によって設立されました。兄弟の一人が亡くなった後、Christian Gottfried Schierholz がパートナーになりました。このテューリンゲンの工房は、そのリトファンのおかげで名声を得ました。ゴットフリート・ヘンクラインによって、1849年以来制作されてきたこれらの傑作は、素焼きの磁器にフィリグリーの光透過性の彫刻が施されています。製造所には 二千以上のモデルがあります。彼らのアーティストはまだ新しいモチーフに取り組んでいます。1851年、クリスチャンの死後、工場の経営は息子のユリウスとヒューゴに引き継がれました。 2人目のヒューゴは、1860年に亡くなりました。彼の兄弟が未亡人のジュリーと共に会社を経営していました。
1877年に次の世代、マックスとアーサー (ユリウスとヒューゴの息子)を引き継ぎました。マックスが去った後、アーサーは唯一の所有権を得ました。1899年にアーサーは亡くなりました。工場は、有限会社 Von Schierholz Porzellan Manufaktur Plaue G.m.b.H になりました。テューリンゲン州が東ドイツの一部となった第二次世界大戦後、会社は国有化され、VEB Porzellan Manufaktur Plaue と名付けられました。
1990年に Schierholz Porzellan Manufaktur Plaue G.m.b.H によってドイツが再統一された後、名前が復元されました。1995年からは、王立特権磁器製作所 Tettau G.m.b.H の一部となっています。