松下村塾の塾生・・・二十九回目 | 隠居の暇つぶし

隠居の暇つぶし

ご訪問頂き、ありがとうございます。
ヤフーブログから引っ越してきました。
このブログでは、宇部市と山口県の紹介をしています。
そして、松下村塾関係の人物紹介です。


        松下村塾の塾生

  福原又四郎・・・「一八四一~一九一〇」
  阿武郡福井村「萩市」生まれ。

  藩士福原市左衛門「利茂」の三男。

  来原良蔵の甥。

  名は利実。字は去華。通称は又四郎・又市。

  十八歳の時に松下村塾に入る。

  松陰先生は又四郎の性格について、「福原存外に確乎たる
  議論あり、感心」と評した。

  松陰先生の再投獄時、重役宅へ押しかけたため、謹慎に処

  された塾生の一人。

  長井雅樂切腹の介錯人をつとめる・「下記余談に・・」

  元治元年「一八六四」、岡部富太郎らと組織した、大組隊

  の総督となる。

  干城隊に入り、四境戦争「幕長戦争」では石州口、戊辰戦

  争では北越に戦った。

  越後府の判事試補となるが、明治二年「一八六九」、辞職

  して帰郷。

  佐賀の乱に際しては、佐賀への進軍を主張したため嫌疑を
  受け、謹慎に処された。

  西南戦争時は山田顕義に従い出征した。

  同十八年山口県看守となり、看守副長兼書記、萩監獄支署
  長を歴任した。

  明治四十三年「一九一〇」死去。

  享年・・・七〇歳。

  お墓は、萩市大字北古萩町の亨徳寺にある。


  長井雅樂の最期・・・余談」
  文久三年「一八六三」二月六日、萩城下土原の自宅におい

  て、四十五年の生涯を自刃によって終えた長井雅楽の辞世

  の詩句。

  君恩に報ぜんと欲して業、未だ央「なか」ば

  自ら四十五年の狂を愧「は」づ

  即今の成仏は吾が意に非ず

  願くは天魔と作「な」りて国光を輔「たす」けん

  〇 君が為死する命は惜しからず 只思はるる国の行末


  長井雅樂の後ろには、妻と嫡子の与之助が坐っていた。
 
  妻に対して、断罪書は「女性の儀は、御構いなく差し置か

  れ侯こと。」と書いてある。

  これは、何とかして生活して、やってゆけるであろう。

  しかし、嫡子与之助は、「父の科「とが」逃れ難く国退き

  仰せつけらるべきところ、十五歳以下につき、先づ親類へ

  預け置かれ侯こと。」という処置なのだ。


  親を失い、その罪を負うて、親類預けになる、子供の不憫

  さが、思わず長井の目をうるましたが・・・

  しかし彼には、これから、済ませておかなければならない

  仕事が重なっていた。

  親戚の者が、ひっそりと別れの挨拶にきては退っていった。

  そうした親戚の者たちのなかで、長井は、とくに福原又四

  郎という青年を選んだ。

  又四郎は吉田松陰の門をもくぐったことのある青年で、松

  陰から、「外見はやさしく見えるけれども、才知があって

  これを補っている。

  そして一度正しいと思ったことは、絶対にゆずらない」と

  いうように評されていた。

  その人物に、長井もほれ込んでいたのだ。

  ときに、又四郎二十一歳である。

  即ち、その又四郎に、介錯として自分の最期を見届けて欲

  しいというのだ。

  もちろん、又四郎も、この頼みを拒みはしなかった。

  長井は、多くの書籍や、文書の中から、これだけは残して

  置きたいというものを選りわけていった。

  そして、それを二、三の文庫や櫃に納めると、夫人をふり

  返って、

  「後のものはそなたの心にまかせるが、これだけは残して
  おいてくれ、長井の家と、わし自身じゃと思うての」とい

  った。

  「はい、きっと守らせていただきます。

  それにしても、長いあいだの御忠勤、ごくろうさまでござ

  いました。

  また、私のようなものをここまで・・・」

  夫人は、妻として、かねて、夫に伝えなければならない心

  を、このようにも、整理していわなければならないと思い

  ながら、あとの方は、声にならなかった。

  「それにしても殿様は・・・」という声が、咽喉のところ

  まで出てくるのだが、それは未練というものだろう。

  未練は、この場においては、最も禁物であり、そして武士

  の妻の、口に出すべき言葉ではなかった。

  折角のお気持に、傷をつけてはならない。

  彼女は、必死にこらえていた。

  そしてその夜、彼女は、親子三人の膳に、福原又四郎を加

  えて、おそい夕食を用意したのである。

  座の空気は、とかく、しめり勝ちであった。

  しかし、口にこそ出さないが、「私は、明日は、立派に死

  んでみせるぞ。」という気持が、彼の顔に凛然たる色をみ

  せて、一つの、救いとなっていたようだ。

  又四郎も、そうした叔父の顔を仰ぎみながら、武士として

  生きるものの厳しさを、改めて思い知らされるような気が

  していた。

  酒も用意されていた。

  どのくらい、それがまわったのか・・・私は知らない。

  しかし、ほどよいところで、又四郎は与之助を連れて別間

  に下っていった。

  四十五歳という男ざかりで、この世に、いとまを告げよう

  とする長井に、心ゆくまで、「夫婦の別れ」をさせてやり

  たいというのが、又四郎の気持であったろう。

  私はここで、三島由紀夫の「憂国」という小説を思い出す。

  しかし、長井雅楽の最後の夜が、どのようであったかとい

  うところまで筆を進めることはできない。

  ただ、二月といえば、まだ、裏目本の風は北から吹く。

  その季節風が松本川に茂る葦の葉をゆるがせながら、長井
  の家の雨戸をもたたいて過ぎただろう。

  その内側に、明日の死をみつめながら、長井とその妻が枕
  を並べていた、というように記すのが、限界だということ

  にしておこう。

  さて、あくれば、いよいよ六日であった。

  長井は、まず、行水を使って下着をかえ、髪を整えて鬢に

  はたっぷりと香油をふくませた。

  もちろん、爪の手人れにもぬかりはない。

  軽い朝餉をとったのち、自室にかえっていった。

  そこには、このことのために用意した、死の装束が置いて

  あるのだ。

  彼は、静かに、それを膝の上に置いてみた。

  立派に、死んでやろうとする心の底に、あの憤りがふつふ

  つとたぎっているのである。

  天魔になる男の死に衣装だ、見てくれ!

  そして彼は、一本の刀をとり出した。

  「又四郎、又四郎」

  声に応じて、福原又四郎が、その前にいざりよった。

  「この刀が、今日、お前が介錯に使う刀じゃ。

  長井家伝来の刀でよく切れるわ。

  わしは独りで、最後まで果すつもりじゃが、しかし、思わ

  ぬ不覚をとることがあるかも知れぬ、そのときは頼んだぞ。

  叔父とても容赦はいらぬ。

 

  存分に、これを揮ってくれい。」

  といいながら、傍らにあった夫人にも、最後の別れを告げ   

  た。


  私のこのあたりの描写は、もっぱら、晩山得富太郎の「幕

  末防長勤王史談」によっている。

  というのは、この著者は当時、まだ在世していた、福原又

  四郎「のちに、改めて今田又市翁」から、その場の状景を

  くわしく語って貰ったというから、最も確かな史料であろ   

  う。


  私には、それ以上に、その場の状景を知る手段はない。

  さて、しばらくするうちに、検使の役人が到着した。

  福原又四郎がこれを迎えて、表八畳の間に通した。

  正使は、国司信濃、副使は目付上席糸賀外衛で、それに目

  付役が、十七名もつくという仰々しさであった。

  もちろん、八畳の部屋に、この人々を、すべて収容するわ

  けにはゆかない。

  彼らは、次の間から式台にまで居並んだ。

  長井は、そこに出て、下座から挨拶をした。

  それに対して、正使が、荘重な口ぶりで、断罪書をよみあ

  げる。

  読み終った正使は、それを長井に渡して、長井は、それを

  型通りに見、再び、正使のもとにかえした。

  正使の国司信濃は、このとき二十二歳の青年で、攘夷派の

  家老であったが、長井の落着き払った態度には、すっかり

  感心してしまっている。 

  長井は、ここで一たん退席したが、すぐに衣服を改めてそ

  の場に戻ってきたという。

  これは公式の立場を離れて一言いい残したいことがあった

  のだ。

  それは、福原によれば、自分は頑迷な保守派の連中とは関

  係がないということであったらしい。

  しかし、この弁明は、副使糸賀によって、にべもなく、は

  ねつけられた。

  そのようなことを、今更言って、何になるというのが、糸

  賀の考えであり、彼はまた、このような緊張から、早く逃

  れたいという気持が動いていたのであろう。

  長井と糸賀のあいだに、気まずい感情が流れて、二言、三

  言、はげしい言葉のやりとりがあった。

  争って、無駄なことをしたと思った長井は、つと立上って

  奥の間に退いた。

  切腹の場所を、しつらえるためである。

  正面床の前に、四枚の畳が持ち込まれ、それが二枚ずつ裏

  返しにして並べられた。

  その上を、白い布でおおい、白布の台の、中央にあたると

  ころで、白羽二重の座布団が置かれるのである。

  そこで、正使と副使の二人は、席を、正面から横の方に移

  した。

  そこに長井が、水色無紋の衣服、それに水色の裃姿で現わ

  れてくる。

  彼は、落着き払った姿で席についた。

  そこへ、福原又四郎が、白木の三方に土盃をのせて進みよ

  り、酒三献を汲んだ。

  そして、それが後へひかれると、次にはいよいよ短刀をの

  せた三方が出される。

  その短刀の下には、半分に折りたたんで白紙が一帖。

  長井が、次の動作に移ろうとしたとき、この、悠揚せまら

  ざる姿で、死に着こうとしている偉丈夫の姿に感激したの   

  か、

 

  国司信濃が、正使の席をはずして、すべるようにして前に

  出た。

  そして、長井の耳に近く、今、このようなことになったが

  貴方の誠心は、すべての人が知っていることだ。

  安心して死んでゆかれよ、私も立派な武人の最期をみせて
  貰って光栄である、というような意味のことを述べた。

  のちに、蛤御門の戦の責任をとって、長井と同じような方

  法で、自決する運命にあった国司信濃だが、何か虫が知ら

  せたとでもいうのであろうか。

  この国司の言葉で、長井も武士の情けというものが知るこ

  とができた。

  長井は、静かに肩衣を脱ぎ、三方を引きよせ、白紙を、指

  先に巻いて、首と腹をぬぐったという。

  そして、残りの白紙で短刀をつつむようにして持ち、刃先

  一寸を余して右手にかまえ、左の手で三方を背後にまわし   

  た。


  こうした、儀式の進行と型は、長州藩において、後の模範

  になったようである。

  それから、長井は、帯を下げて腹部をくつろげ、ゆっくり

  とそれを撫でおろすようにして左の脇腹をさぐり、その手

  を右手の拳の上に置くと、一気に、そこに突き立てた。

  そして右の方に向って、きりりと一直線に刃を走らせたの

  である。

  そこで、切先をかえして上方に抜き、そのまま頚動脈に持

  ってゆくのだ。

  ところが、長井は、あまりにも深く刃を突き立て過ぎたよ

  うだ。

  気性の激しい人物には、往々にしてこのことがあるようで

  ある。

  そのために、思いもかけないほど多量の血液がながれ出て
  きた。

  長井は、その腹部を、左手でかばったまま、右手だけで咽

  喉をはねようとしたのだ。

  しかし、腹部の重傷が、彼の右手を狂わせた。

  刃は、急所をはずれたようである。

  介錯なしに、自決したいという一念は、それほどの痛手に

  も屈せず、左手を腹部から右の拳に戻すと、

 

  いま一度と、血糊のふき出している咽喉首に突き立てた。

  そして、その刃を、はねるようにして抜くと、その短刀を

  畳の上に突き、ゆらりとゆるいで前方に伏せた。
 

  型の通りにいったのである。

  ところが、このときも、急所を外れていたようだ。

  長井は、ぐっと首をあげ、最後の力を、ふりしぼるように

  して身体を起した。

  正坐に、かえったのである。

  そして、じっと局囲を見廻したという。

  また目が、正使から、副使の糸賀に向けられたとき、糸賀

  は背筋を走るような悪寒におそわれて、頭をあげることが

  できなかったという話も残っている。

  又四郎は、ここで介錯の役目を果すときがきたと思った。

  彼は、すぐに、その側に進みよった。

  そして、左の小脇に長井の身体を抱き、右手にその短刀を

  持たせて、これを助けながら、一気に咽喉をはねさせよう

  としたのである。

  しかし、長井は、左の手を振った。

  一人で死ねる、まだよい、という意志表示なのだ。

  又四郎は手を放した。

  長井の意志とは反対に、もう身体が動かないのである。

  手が徒らに宙に舞っている。

  又四郎は、長井から渡された、刀を抜こうとした。

  しかし、あくまでも、自分の手で、死のうと最後の力をふ

  りしぼっている叔父の心を思うと、ここで首を打ち落すこ

  とがためらわれた。

  彼はもう一度叔父の身体に、かぶさるようにして坐り、そ

  して、その短刀を、咽喉首に向けてあてがってやった。

  そのとき、長井は、まだそれだけの力が残っていたかと思

  われるほどの勢で、自分の気管を絶ち切ったのである。

  彼の呼吸は、そこで絶えた。

  しかし、身体は、まだ坐ったままであったという。

  又四郎がその身体を静かに横にして、両手を合掌させた。

  切腹の作法が型の通りに終ったのである。

  そして、智弁第一とうたわれた長井雅楽の一生も、そこで

  終りを告げたのである。