昭和時代「戦前・戦中」・・・十回目 | 隠居の暇つぶし

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昭和時代「戦前・戦中」

 

盧溝橋事件・・・「昭和十二年」

日本陸軍の華北侵略に対し、中国の民衆は怒りを

あらわにし、大規模な抗議デモや日本製品のボイ

コットなど、反日運動「抗日救国運動」が各地へ

と広がった。


このような情勢を受け、国民党の蒋介石は日本軍

が河北つくった傀儡政権「殷汝耕の冀東防共

自治政府。」の解体を要求、

 

さらに北京「北平」に、冀察政務委員会と称する

国民政府の機関を設置して、日本の華北分離作戦

に抵抗した。


ただ、共産党との内戦勝利を第一目標に置いたた

め、日本との衝突は極力避けようとした。


だが、事態は大きく変化する。


昭和十一年十二月、蒋介石が西安で部下の張学良

に軟禁されたのだ。


張は「中国人同士が争っているときではない。直

ちに内戦を停止し、一致団結して日本に抵抗すべ

きだ」と、共産党との提携を迫ったのである。

 

西安事件。


最終的に、この説得に応じた蒋介石は、内戦の停

止を宣言し、中国共産党と結んで日本の侵略を阻

止する方針をかためた。


さて、北京郊外に盧溝橋「ろこうきょう」と呼ば

れる石橋がる。


一 一八九年に建造された文化財級の橋だ。


この橋付近で、昭和十二年七月七日、支那駐屯軍

歩兵第一連隊、第三大隊の清水中隊が夜間演習を

行っていた。


すると、午後十時ごろ突如暗闇のなかから十数発

の銃弾が撃ち込まれた。


ただちに、人員が招集され点呼が行われたが、一

名の行方がわからない。


銃弾は付近の中国軍陣地から放たれ、不明の一名

は犠牲になったに違いないと判断した支那駐屯軍

は翌日、中国軍に攻めかかった。


だが、その翌日、中国軍が撤退をはじめたため戦

闘は終息し、現地において停戦が成立した。


ちなみに、行方不明だった兵士は、八日に無事帰

還した。


これが、盧溝橋「ろこうきょう」事件である。


もし、日本政府が動かなければ、この偶発的事件

が大問題発展することはなかったろう。


しかしながら、近衛文麿内閣は、この事件に過敏

に反応する。


現地解決を希望しつつも、国民政府が対日戦争を

準備しているので、支那駐屯軍の和平努力が徒労

に終わり、事態が悪化する可能性が大きいと判断

北京や天津「てんしん」の在留邦人保護のため大

軍の派遣を決定したのだ。


これに対し、蒋介石は七月十七日、廬山「江西省

北部」において「満州を日本に奪われてから六年

日本軍は北京の門戸盧溝橋まで迫っている。


もし、日本軍が北京を奪おうとするなら、我々は

弱国ながら徹底抗戦する。」という声明を発表し

た。


これを聞いて、日本側も後へ引けなくなり、続々

と陸軍部隊を華北へ送ったことで、ついに日中の

大規模な軍事衝突がこった。


一九三七年九月、蒋介石と共産党の毛沢東は第二

次国共合作「国民党と共産党の提携」に踏みきり

一体となって戦う体制「抗日統一戦線」を構築し

た。


ただ、華北における戦闘は、圧倒的な日本軍の優

勢のもとで推移し、日本軍は、北京や天津などの

主要都市を陥落させ、ほぼ一帯を制圧した。


次回につづく