昭和時代「戦前・戦中」・・・九回目 | 隠居の暇つぶし

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昭和時代「戦前・戦中」


二 ・ 二六事件・・・「昭和十一年」

昭和十一年二月二十六日未明、陸軍の青年将校ら

に率いらた、第一師団の歩兵第一、第三連隊を

中核とする千四百八十五名が、岡田啓介首相、鈴

木貫太郎侍従長ら重臣を次々に襲撃永田町一帯を

占拠した。


このおり、高橋是清蔵相や斎藤実内大臣、そして

渡辺錠太郎教育総監が殺害された。


世にいう、二 ・ 二六事件の勃発である。


首謀の青年将校らは、川島義之陸軍大臣に決起趣

意書を手渡したが、そこには「天皇に仕える不義

の重臣を、すべて排し、天皇親政のもとに国家

改造を断行してほしい」と書かれていた。


だが、この反乱は、陸軍の派閥争いが高じた結果

に過ぎなかった。


当時陸軍内では、政府を合法的に軍部寄りに変え

ていこうとする統制派と、軍部内閣樹立のために

は武力も辞さないとする皇道派が反目しあってお

り、

 

今回のクーデタは、劣勢だった皇道派が一気に主

導権を奪おうとするものだった。


別項で述べたように、日本経済は慢性的な不況に

陥っており、とくに農村部の疲弊は深刻だった。


革新的な青年将校や右翼は、「国民が、貧困に苦

しむのは、腐敗政治家や富を独占する財閥のせい

だ。」と考え、


軍が政権を握って国家改造を断行し、平等な社会

をつくるべきだと信じた。


その信念のもと、井上準之助元蔵相や団琢磨三井

合名会社理事長を殺し、現職の犬養毅首相を射殺

していった血盟団事件、五 ・ 一五事件」。


こうしたテロに国民は、むしろ共感を示したため

ますますらをして、その行動を増長させる結果

となったのである。


さて、事件当時の昭和天皇の言動である。


天皇は、自分の重臣を殺害した行為に怒りをあら

わにし、本条繁侍従武官長に反乱を鎮圧するよう

厳命した。


ところが本条は皇道派に近い陸軍の長老で、その

意思を明確に下達しなかったばかりか、むしろ天

皇に反乱将校を擁護る言上を行ったのだ。


川島陸相を筆頭とする、陸軍首脳部も反乱軍の要

求にたじたじとなり、クーデタを容認する発言を

繰り返していく。


首脳部は、今度は自分たちが標的にされるのを恐

れるとともに、陸軍が陸軍を討つ状況を是が非で

も避けたかったのだ。


つまり、事態は天皇の意思とは正反対の方向へ動

き出していった。


これは、統帥権を総攬する天皇への明かなる冒涜

であった。


天皇は、たびたび本条を呼びつけては、速やかな

る鎮圧を要求し、その命令が履行されない現実に

不満を募らせ「奴らは私の股肱の臣を虐殺した

暴な者たち、なにゆえ討たないのか。」と難詰。


ついには「私が、自ら、近衛師団を率いて討伐す

る」とまで口に出された。


ここにおいて、ようやく陸軍も動き出すが、ただ

同士討ちをけるため、あらゆる手段を用いて反

乱軍に投降を呼びかけた。


結果、反乱軍はこれに応じて原隊へ戻り、クーデ

タは四日目で鎮圧された。


事件後首謀の青年将校のほか、彼らに影響を与え

た右翼一輝「いっき」と西田税「みつぎ」も

死刑となった。


次回につづく