”最期を選ぶ” フジテレビ系「安楽死の無い国で私たちは~」 | カズのヨット世界一周航海&人生日記

カズのヨット世界一周航海&人生日記

2014年3月にスタートしたヨット世界一周航海は出航前にアクシデント続出。果たして、アメリカ・フロリダを出航して日本に帰還できるのか。挫折するのか。1年掛かるのか、2年掛かるのか。

今日は、2023年の12月29日の早朝です。4時AM

上のタイトルの番組を、僕は(再放送らしい)つい先ほど見ました。

 

見ていて、ショックで、苦しくて、悲しくて、辛くて、、、、

 

その理由でここに書くことにしました。お許しください。

 

その前に、下の写真ですが、出雲大社に参拝して昨日、28日に帰ってきたばかりです。

 

今年3回目の出雲大社です。「何回行くねん~~」って怒られそうですが…笑笑

 

兎に角、今年一年の感謝の意味でお参りしたかったので、1泊二日で行ってきました。

 

明後日(大晦日)は、伊勢神宮にも行く予定です。

それも、毎年恒例のお礼参拝です。。。

 

 

さて、この綺麗な出雲の写真とは相いれないかもしれませんが、

安楽死の選択肢のドキュメントは、見ていて、しんどかったです。

 

自分の息も苦しくなりました。今もドキドキしています。。

 

僕は、上の写真にもあるように、神様や仏様をよく考える人間です。

全然わかっていませんが、分かっていないから、余計に考えたり、感じたりしたいのだろうと思います。

 

自分の人生でも、通常の日常生活でも、事あるごとに、或いは季節ごとに、神社やお寺に参拝します。

 

手を合わせると、なにか安心できるように思うのです。。。

それは、もしかしたら、勘違いや錯覚かも知れませんが、、、

 

自分は、神様や仏様に生かされて、生きていると信じています。

 

自分で生きているんじゃなくて、生かされていると言う考えです。

生かされていると言う意味は、自分の力ではなく、何者かの別の力で、別の意図・意思で、この世に生を受けて、今生きることが出来ていると言う意味です。

 

ずいぶん昔にも、人から言われて教えられた記憶があります。

 

「この命は、自分の力で、意思で、この世に存在しているのではないですよ。」

「この世に、使命を持って、理由があって、貴方は生を受けています。」

 

つまりは、貴方の意思や力や考えは、貴方の生を受けるに当たっては、一切、何にも、一ミリも、影響しておりません。

 

つまりは、僕らの命は、僕らの物では無いと言う様な意味にも感じることになります。。。

 

生まれる時に自分の意思で生まれましたか?

貴方を産んだ筈の、貴方の両親だって同じです。

貴方がいつ生まれるのか、どんな顔で生まれるのか、五体満足なのか?どんな性格なのか?元気なのか、病弱なのか?

何にも知りません。奇跡的に生まれるのです。。。

 

つまりは親が故意に作り出したのものでもありません。

 

じゃあ、誰が作ったのか??

要は、命は、作るものではありません。

奇跡的に、生を授かったのです。

意味があって、大いなる使命を持って、この世に生を受けたのだと・・・

 

僕は若い時に、随分昔に教えられたような気がします。

また、今も、今までもそう信じています。

 

仮に、誰か他の物に、或いは、何者かによって、この世に生を授かったとしたなら、その人に(そのものに?)お礼を言わないといけません。。。

 

そんな理屈で、寺社仏閣にも、常々参拝して、お礼を申し上げるようにしている様に思います。

 

しかし、又それも確固たる信念がある様な、強くて賢い人間では僕は無いです。気まぐれのような感覚のふらふらとした優柔不断の自分です。。。笑笑

 

まあ、未だに分からないから、何となくって。。。って感じです。

 

さて、自分の死の瞬間を自分で決める?

 

やはり違和感があります。

 

生まれて来るときは、自分の意思は一つも働いていないのに、死ぬときは自分で決められるのだろうか??

 

つまり、この世に命を授かった、と言いう、その大いなる者に、言い訳が立ちません。矛盾しているし、不自然であり、おかしいです。

 

人の命は物ではありません。誰かの所有物でも無いと感じます。

 

誰かと言うのは、自分と言う意味です。

僕の命は僕の所有物でしょうか?

 

僕は違うように感じます。

 

自分の体は自分の物。ゆえに、自分の命は自分の物。そう思っていらっしゃる方は多いのでしょうけど、さっきの理由で、僕はそうは思えないのです。

 

自分で決めて作った部分は何一つも無いのに、その処分を急に自分が出来る権限があると言うのは、何か、いささか矛盾を感じます。

 

僕らの命は、自分の物ではなく、大いなる力で、この世に生を与えられていると言う事実です。

 

つまり、僕らの命、心臓も、手も足も、僕らの人生全て、自分の物のようで自分の物ではない。

何者かに生かされている。。。与えられている。。。命じられている・・・??

 

そんな感覚に感じるのです。

 

つまり、痛いから、しんどいから、嫌だから、

私は、自分で命を終わります。。。明日死にます。。。

 

何か、凄い違和感と言うか、間違っているように感じてしまいます。

 

もしそんなことが許されるなら、或いは、正しいのなら、

生きている人全員が、人間は皆、何時でも自分の意思で死んで良い事になります。

 

つまりは、自殺が正当。何にも問題ない? ってことになるの??

 

苦しいとか、痛いとか、、、人によって違うでしょうし、、、

時と環境に寄っても、人の人生なんて、刻々と、変わるようにも感じます。

 

実際に、テレビのドキュメントの中で、日本人の男性が、安楽死を望み、ほぼ決めていたのに、
その医師の診断書(不治の病の)が下りた途端、痛みが和らいだと言うのです。(スイスに安楽死に行こうと決めていた人が…)

傷みがきつくて、耐えられなくて、死にたいと考えていた訳ですから、痛みが快方に向かえば、もう死ぬ理由はありません。

 

一転、生きる希望が湧いてきて、顔も晴れやかに輝き、病気と闘うと言っていました。。。

 

今日、僕は、今更、自分の人生を考え直しました。

 

昨日、出雲大社で祈ったり、反省したり、誓いを立てたりもしましたが、大いに間違っていたことに気付いたような気がします。

 

自分の命は誰の為に在るのか? 自分の人生は何の為に在るのか? どう生きるべきなのか?

いつものように、自己中心的な感覚で考えていて、間違っていたように感じます。

僕は何故生きているのか? 何を望んでいるのか? 何を追い求めるのか? 

 

今日のTVドキュメントを見て、気が付いたように感じます。

 

ありがとうございました。

今日、さっき、TVドキュメントを見せて頂けた偶然に感謝します。

 

かず