皆さんおはようございます、菊澤多門です。

前回(天一号作戦、天一号作戦 続編)で、
紹介したお話を 語る上で欠かすことができない人がおられます。

今日は、
池田武邦氏を知っていただきたいと思います。


池田武邦氏はこのように述べられています。

「軍部が勝手に戦争を始めたという人たちがいます。

戦争指導者たちがすべて悪いんだと。
本当にそうでしょうか。

戦前といえども、国民の支持がなければ戦争はできません。

開戦前の雰囲気を、僕は憶えています。
世を挙げて、戦争をやるべきだと盛り上がっていた。

ごく普通の人たちが、アメリカをやっつけろと言っていたんです。

真珠湾攻撃のときは、まさに拍手喝采でした。」
(昭和二十年夏、僕は兵士だった 梯久美子 著)

池田氏は戦中、

マリアナ沖海戦、
レイテ沖海戦、
沖縄海上特攻、(天一号作戦)

という3つの海戦を決死の覚悟で戦い、

絶体絶命の中、生き延びるという、
信じられないような経歴の持ち主です。

つまり、戦艦武蔵や戦艦大和が沈没するところを
その目で見た、生き証人なのです。

そして当時、
中尉という階級で、海戦でのあらましを詳細に記録された稀有な人物です。

冒頭の言葉にあったように、
池田氏は国民の支持に応えて、
国の為、国民の為、
文字通り 地獄絵図 のような中を奮闘してこられました。

だけど、終戦を迎え、
元軍人は感謝どころか、
冷遇されたそうです。

元軍人は受験も制限され、

ハンディがあるにもかかわらず、

終戦の翌年に池田氏は東京帝国大学に合格します。

受験勉強に費やした時間は僅か1か月。


しかし、当時の世の中では、
戦争に関わった人間イコール悪人で、

特に東大に入ってくるような学生にとって、
軍人を軽蔑するのはステイタスであり、
インテリの証だったそうです。

これは、
つい一年前まで自分自身の命と引き換えに国を護る為に戦った池田氏にとって、あまりに辛いことだったのではないかと思います。


戦後日本は再起不能と思えるほどにボロボロで、焼け野原でした。

池田氏はそんな日本に近代化をもたらしました。

日本初の「超高層ビル」を創ったのです。

霞が関ビル、
新宿三井ビルも、
京王プラザホテルも、
ハウステンボスも、

池田氏の建築家としての活躍によるもので
す。

ご存知の通り、
今では超高層ビルがあちこちにあります。

これほどまでの功労者がどれくらいいるでしょうか?
私は、松下幸之助氏も同様に尊敬しますが、

これくらいの偉人になると、
スケールが大きすぎて想像が追いつきません。


さらにこんな話があります。
作家の梯久美子さんが、
建築家としての実績について聞くと、

「どうってことはないです。」
と、池田氏は答えられたそうです。


「矢矧に乗っていた一年間に比べると、戦後にやったことなんか、本当に大したことないんです。

そりゃあ、日本の復興のために役に立ちたいと
思って自分なりに一生懸命やりましたよ。 

でも個人的には、あの一年間に経験したことには
遠く及びません。」

池田氏の言葉は、自然で飾り気がなく、重い。

人柄は温厚で謙虚な印象です。


池田武邦氏から学ぶことはたくさんあると思います。



石原慎太郎氏との対談動画です。





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池田武邦氏