シューベルトのミサ曲第六番のKyre。なんともいえぬ天国的な長さ。すべてが清らかでなんの陰りもない穏やかで明るい時間がそこにはただよっている。

モーツアルトの大ミサ曲のKyrie.。やや深刻に始まるがやがてそれは壮麗で清らかな晴れ空に。モーツアルトの音楽の翳りはそれはモーツアルトの心のやさしさの裏返しではないかと思ってしまう。


それにしてもこの二人の天才は生前にはそれほど大きな富をえることもなく、権力者となることもなく、つまりエスタブリッシュメントとなれたわけではない。むしろ世間にそれほど認められたわけではなく、むしろその人生を終えるころは一介の貧者にすがいなかったようである。


だが残されたミサ曲のずばぬけた美しさ、壮麗さをさえたものはなんであったのか?世にでることも危ぶまれる創作に命をかけさせtものはなんだったのだろうか?


世俗の富も名誉も地位も彼らには関係のないものであったのだろうか?


現代の大芸術家=富める者、権威ある者、名声を恣しいままにしようとする者達とは違っていたようである

生まれてはじめて買ったクラシックのLPレコードはカラヤンとフィルハーモニアの運命、新世界だったのですが。。。

その後フルトベングラーの運命を聴き同じ曲とは思えないほどの衝撃をうけ、カラヤンを聴くことはなくなりました。カラヤンの音楽は前ががりのテンポでたんたんと音楽が進むだけで気迫というか情熱というかそういうものを全く感じなかった

そのご10数年たって、スメタナのモルダウのカラヤン、ベルリンフィル盤を買った。

綺麗な音がただ平板にながれていくだけというイメージは全く感じられなかった。クーベリクの我が祖国のような感動は何も感じなかった。


カラヤンはやはり当時からいわれていたように、音楽からパトスを組織的に消素というそういう立場の音楽家であったようである。ベームの固さやセルの冷たさ(当時はそのようにいわれていた)とはまた別に、


音楽から概念的なものを意図的に捨て去って音のページェントとする、それが彼のやり方であったようであり、それは」また、エキッセントリックといってもいいものではなかったのだろうか。


ゼムリンスキーの交響曲第一番を聴きながら

スウィトナーは生前シューマンを得意としていた。NHK交響楽団をたびたび振っていたがその頃サバーリシュもよくN響をふっていて、ザヴァーリッシュはブラームスをよく振っていた。

スィトナーはBSKとシューマン交響曲4曲全曲録音しているが。非常に素晴らしい、。録音よく彼のシューマンのよいところを拾っている。

 全体のバランスもよいけれど特に低音部の重い響きとティンパニがよい。つまり低音部がブンブンどかどか思い切りよくなるので安定感を保ちながら、劇的で推進力のある非常によくできたシューマンの交響曲が仕上がっている。

 スィトナーはクレアメンスクラウスに師事したために非常に流麗でロマンチックな音づくりが基本にあるがそこへ劇的な要素を加えたことでこのシューマンの完成度は図抜けたものとなっているようだ