四季は移りゆき、あわせ時代もかわって

ゆくようだ。時は流れてゆくが、ひとに

は、たがいに青春と呼ばれる時期がある

はず、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」での

京の都での貴い公家や姫、この男女はど

うだったのだろうか。

これを浮世絵春画で遡ってみる。

 

竹原春朝斎「曲水宴」

江戸時代の絵師・竹原春朝斎は『新童児往来

万世宝鏡』(黒摺大本・一冊・安永5年177

6)に公家の世界を描いており、テーマは、

曲水宴(旧歴弥生3月3日)。

 

庭園のなかを流れる小川のほとりに座り、上

流から流される盃が自分の前にくるまでに詩

歌を詠み、杯を取り上げ酒を飲み干し、それ

を注いで次へ流し、終わると室内で宴をもう

けて、詩歌を披露したという公家らの遊宴が

あった。

 

春朝斎の「曲水宴」の絵には詞書があり、こ

れが愉しい。

 

 

画面には、小川の傍に公家と姫の男女のふた

りがおり、頭上の樹には桃の花が咲いている。

川上では稚児とその後ろにも公家がいる。

 

(公家)

きょくすい(曲水)とは 曲どりのすいごと

(粋事)をするかくしことば けふはいろい

ろにしてたのしむぞ

(姫)

ささ(笹)をたんと召しあがったゆえ いつ

もよりおおきうなり、自らもいたづらな気(

ぎ)になりました

(公家)

アレ川上ではやくも曲どりしているのは若衆

好きの好岡中将とみえる

(姫)

よその楽しみをみるにつけ猶(なほ)いやまし

い気がうきうきとしてまいります早ようはじめ

なさらぬかいな

(公家)

どれどれ雛(ひな)の女夫事(めうごと)をは

じめようか 是(これ)はや細い谷間がじくじ

くとしてきた 丸木橋をわたしてやろう

(姫)

誰がはじめてこのようにおさしになったのでし

ょうか 早うなされいなア

(公家)

公家のゆるゆるびんぼう(貧乏)ということも

ゆるゆると雛の開(ぼぼ)をするというたとえ

それよいか よいか

(姫)

ハイ ようござります ようござります

アヽ アヽ アヽ

(好岡中将)

雁高(かりだか)の大納言実好卿もあの通り

じゃ

 

曲水宴では、大納言実好(さねよし)卿と姫

のふたり、そしてその川上では稚児と好岡(

すきおか)中将が織りなす男と女の宴がつづ

いていく。

 

竹原春朝斎信繁と『和泉名所図会』

竹原春潮斎は生年不詳、姓は竹原(たけはら)、

本姓は松本、名は信繁、俗称は門次、号は春潮

斎(しゅんちょうさい)と称する。

明和から名所図会の絵師と知られ、竹原春潮斎

こと竹原春潮斎信繁の名で『和泉名所図会』(

秋里籬島著、寛政8年・1796刊行)はじめ『

東海道名所図絵』、『摂津名所図会』の挿し絵

を描いている。

 

そのひとつ。

衣通姫(そととおりひめ)は粧扮を施さずして

おのずから美艶あり。楚辞に見えたる朱唇、皓

歯、豊肉、麗目、遠山の眉濃也。其上、和歌の

三聖の内なれば此許に、允恭帝のつねにかよい

給うも(むべ)ならん哉

 

 

竹原春朝斎信繁による和泉名所図会の衣通姫

 

允恭天皇(第19代・5世紀前半古墳・伝承の時

代)は使いを派遣し、姫を宮廷の邸で住ませた

たが、皇后は嫉妬が激しく、姫を河内茅淳(ち

ぬ)に別宮をつくり居らしめたという。この茅

淳宮跡が長滝の上ノ鄕中村(現大阪府泉佐野市)

にあったと伝えられている。

長滝の衣通姫の旧蹟保存会の人々により、毎年、

墓前祭が催しされている。

 

 

茅淳宮旧蹟跡の衣通姫の墓がある中村児童公園(泉佐野市上之郷中村)

 

 

2019.9.1

大阪の衣通姫(「茅淳宮旧跡」)ー新大阪物語(669)

2022.3.28

しだれ桜とソメイヨシノー男と女の物語(253)

2022.10.31

競演春画<燃ゆる青春「矢遊」>ー男と女の物語(254)