昔から、これほど美しい女性がいたか

といわれる美人がいた。

この女性は、艶色が衣を通し照り輝いていた

というほどの美人で、ときの帝は、この地に

通ったという。

「和泉名所図会」にはその姫の挿絵があり、

説明が添えられいる。

 

 

 

ー衣通姫(「和泉名所図会」)ー

衣通姫(そととおりひめ)は粧扮(しょうふん)

を施さずしておのずから美艶(びえん)あり。

楚辞に見えたる朱(あか)き唇(くちびる)、

皓(しろ)き歯、豊(こえたる)肉(はたえ)、

麗しき目、遠山(えざん)の眉(まゆ)濃(こ

まやか)也。

其の上、和歌の三聖の内なれば此の許に、允恭

帝のつねにかよい給うもなべならん哉

 

 

ー衣通姫の「茅淳宮旧跡」・「衣通姫の墓」ー

大阪の南部、JR阪和線長滝駅を下車し、田

園地帯のなかを山側(東)に約30分ほど歩く。

 

 

泉佐野市上之郷中村に衣通姫の旧跡「茅淳宮

旧蹟」があり、「衣通姫の墓」が残っている。

旧蹟は中村児童公園のわずかな敷地で、その

奥に衣通姫の墓が祀られている。

 

 

ー衣通姫伝説ー

衣通姫は、允恭天皇の恋慕を受けた女性

で、允恭天皇の皇后(忍坂大中姫)の妹

(おとひめ・弟姫)で、「弟姫、容姿絶

妙無比、其艷色透衣○晃、是以、時人号

曰衣通郎姫也」と記され。「日本書紀」

の(衣通郎姫)の伝による。

天皇は、衣通姫を近江坂田に七度も召し

上げようとしたが、姫は皇后の心情をお

それて、ゆかなかった。

天皇に派遣された使主は庭に伏して懇請

7日、ついに姫をともない大和の春日に

至る。

天皇は、姫を藤原に構えた屋に居らしめ

たが、皇后の嫉妬はやまず、さらに河内

茅淳(ちぬ)に別宮をつくり居らしめた

という。

この茅淳宮跡が長滝の上ノ鄕中村にあっ

たと伝えられている。

 

 

衣通姫は、美貌で和歌に優れ、「古今集」

にも記され、柿本人麻呂、山辺赤人とな

らぶ歌人の名手として知られる。

和歌三神は、住吉明神、玉津島明神、柿

本人麻呂をいい、和歌山の玉津島神社で

は、雅日女尊、神功皇后、そして衣通姫

が三神として祀られている。

「古事記」では、允恭天皇の皇女・軽大

郎女、「日本書紀」では允恭天皇の皇后

衣通郎女の姫が衣通姫として後世に伝え

られる。

衣通姫は、旧くから美人の例にあげられ、多

くの文学の題材となり、長滝の衣通姫の旧蹟

保存会の人々により、毎年、墓前祭が催しさ

れている。

 

 

2019.8.30

堺の千利休(「和泉名所図会」)ー新大阪物語(668)ー