堺の町で生まれ、育った千利休、

信長、秀吉の頃に、茶道で知られるようになる。

その後、いろいいろと語りつがれる。

 

ー「和泉名所図会」の千利休ー

約400年前、江戸時代初期にでた「和泉名所図会」には、

千利休の挿絵と西行の歌を載せている。

 

 

千利休は、茶道の極意に

西行の和歌を尊み給ふとぞ聞こえし

山家集

哀れただ 草の庵の さびしきは

   風より外に  とう人ぞなき     

                      西行

 

挿絵の千利休は、あくまで、江戸時代にイメージした利休像であり、

わびの風流を詠う、西行法師のごとくかさねている。

現実の利休は、堺の豪商で、茶道を通して、戦国の世に生きる。

 

ー千利休ー

千利休(1522ー1591)は堺商人・田中与兵衛のことして、

堺宿院に生まれる。

 

 

             千利休屋敷跡(堺市堺区宿院町 2014.8撮影)

 

千利休は武野紹鴎(たけのじょうおう)の弟子となり、

山上宗二(やまのうえそうじ)は利休に師事した。

利休は、織田信長についで、豊臣秀吉の

茶道の茶頭(さどう)となる。

天正19(1591)年、秀吉から堺で蟄居を命ぜられ、

京都の屋敷に戻され、切腹を命じられる。

堺の南宗寺には、千利休の遺髪をおさめた墓がある。

 

 

         千利休が修行した南宗寺(堺市堺区南旅篭町東3-1-2)

 

千利休は、江戸時代以降、茶の湯の大成者として、

「和泉名所図会」には、平安時代の西行法師の歌にあわせ

江戸時代の千利休像が描かれている。

 

 

2019.8.8

の高須(地獄太夫と一休和尚)ー新大阪物語(667)