鴨長明と賀茂御祖神社(下鴨神社)

鴨長明は、賀茂御祖神社(下鴨神社)

の神事を統率する禰宜・鴨長)の次

男として誕生。

俗名は(かものながあきら)で、和

歌を俊恵の門下となり、あわせ琵琶

も学ぶ。

 

 

 

京都の賀茂御祖(かもみおや)神社(京都市左京区下鴨泉川町59)

 

鴨長明

鴨長明は建仁元(1204)年8月和歌所

寄人に任命される。

元久元(1204)年河合(ただす)社の

職に欠員が生じたことから長明は就任を

望み、後鳥羽院から内諾を得ていたが、

賀茂御祖神社禰宜の鴨祐兼は長男を推し、

神職としての出世の道が閉ざされる。

 

 

賀茂御祖神社(下鴨神社)の摂社・河合神社​​​​​

 

鴨長明は大岡寺(滋賀県)で出家し、東

山、次いで大原、後に日野(現京都市伏

見区醍醐)に閑居生活を行う。

 

鴨長明と飛鳥井雅経(鎌倉下向)

出家後は蓮胤と名乗り、俗名を音読みに

した鴨長明(かものちょうめい)として

知られる。

建暦元(1211)年秋、57歳の鴨長明は、

飛鳥井雅経に誘われて幕府の開かれた鎌

倉へ赴く。

 

雅経は長明を推挙した。三代将軍源実朝

との会見という重要な要件で、長明は隠

棲している身だが、歌壇を去っても、和

歌への情熱は失っていなかった。

駿河にて。長明が詠み、これに雅経下の

句を詠む。

昔にも かへでぞ見ゆる 宇都の山

  おかで都の 人につたへん

 

同年10月10日、ふたりは無事に鎌倉に

到着した。13日は源頼朝の命日にあたり、

法華堂で法要が営まれており、長明らも

列席する。やがて法要が終わり、長明は

堂の柱に一首の和歌を書いた。

草も木も なびしき秋の 霜消えて

  空しき苔を払ふ  山風

亡き頼朝を偲び無常の思いを歌に詠む。

 

翌10月14日実朝に謁見する。

雅経は「この者、新古今集の歌人」と

紹介し、鴨長明殿を神官の座に就ける

よう願い出るが、神官の職は空きがな

く、またの機会にということになる。

 

帰路につく雅経と長明。

長明は雅経に「今更神官になろうと考

えていまいぞ」というと、「あんな所

にひとり世間と離れてどうします?」。

これに「わしは今の生活が気にいって

いるんだ。だいたい将軍様の態度で、

わかったろう…人を物来いのようにみ

ているんだ、もういいんだ…」やはり

日野の庵で生を全うするのが望むとろ

だ。というと、「それは強がりという

もので、あなたに、なんとか世間で暮

らして欲しい」と。これに「もう聞く

耳もたん!」と言い放つ。

実朝は、できたばかりの「新古今和歌

集」に接し歌境をひらき、藤原定家を

師と仰ぐ実朝にとって、長明はとるに

たらない存在だったのだろう。

 

鴨長明「方丈記」と源実朝

翌年建暦2(1212)年3月「方丈記」

成る。

5月和田義盛の乱起きる。鎌倉大地震。

12月源実朝が自選・編集した『金槐和

歌集』三巻が成る。

建暦3(1213)年7月栄西没、8月鎌倉

に大雨

建保4(1216)年閏6月10日鴨長明没

11月源実朝、権中納言の直衣始。翌日

唐船の建造を命じる。

建保5(1217)年

2月北条政子上洛。10月公暁、鶴岡八

幡宮4代目別当に就任。

承久元(1219)年

1月源実朝、右大臣拝賀の場で、公暁に

暗殺される。

 

下鴨神社

「ゆく河の流れは絶えずして、しかも

もとの水にあらず」で始まる『方丈記』

の作者鴨長明は河合神社の禰宜(神職)

の家系であった。

賀茂川と高野川が合流後に鴨川となる

三角形のところの南に、河合神社があ

る。弘仁元年(810)以降約400年

わたり、斎院(斎王の御所)が置かれ、

賀茂社に奉祀した。

毎年5月15日に賀茂祭(葵祭)が行わ

れ、下鴨神社は京都の神社のなかでも

最も古い神社のひとつである。

宮廷歌人として活躍した鴨長明の歌。

石川や瀬見の小川の清ければ

  月も流れをたずねてぞすむ。

 

 

賀茂川と高野川が合流の三角形のところにある下鴨神社・河合神社。

 

 

 

 

2022.10.20

栄西(建仁寺)と「鎌倉殿」ー新京都物語(280)