時代が代わるとき、社会もかわり、人々は
心の不安を、新たな宗教を求める。移りゆ
く大河の「鎌倉殿」もそういう時代であった。
栄西(建仁寺)と「鎌倉殿」
(栄西と宋)
栄西は14歳で比叡山延暦寺にて出家得度し、天
台宗の教学と密教を学ぶ。貴族の政争の具と堕
落した日本天台宗をたてなおすために、平家の
庇護を得て、南宋に留学し、天台山万年寺を訪
れ重源らと帰国する。当時南宋では禅宗が栄え、
日本の仏教にも禅を用いいることを始める。
(栄西と道元)
栄西は天台密教葉上流の流祖で、道元(曹洞宗
の開祖)は、入宋前に建仁寺で修業しており、
師の明全を通じて栄西とは孫弟子になる。
(栄西と北条政子)
鎌倉五山のひとつとして知られる寿福寺は、
北条政子が栄西を招いて創建した臨済宗寺
院である。
(栄西と源頼朝)
正治2(1200)年正月13日に栄西は頼朝の
一周忌を務め、北条政子建立の寿福寺の住職
に招聘。同年政子が京で描かせた十六羅漢図
の供養の導師を務める。
<栄西と源頼家(建仁寺)>
建仁2(1202)年鎌倉幕府2代将軍・源頼家の
外護により、建仁寺を建立。建仁寺は、禅・天
台・真言の三宗建学の寺であった。
京都最古の建仁寺の勅使門
以後幕府や朝廷の庇護を受け、禅宗の信仰に努め
た。創建にあたって鎮守として恵比寿神社が建立
される。
広い境内の建仁寺の三門
<栄西と比企能員の乱>
建仁3(1203)年9月2日北条時政邸の薬師如来
供養の導師を務める。このとき、北条時政は比
企能員を誘い出し、暗殺する。
<栄西と頼家の子・栄実(「泉親衡の乱」)>
頼家の子・栄実は母が法橋(一品房昌寛の娘)、
幼名は千寿丸(1201-1215)。
北条に反感を持つ信濃国御家人・泉親衡に大将軍
として擁立させられ、同年2月北条氏によって捕
縛される。建保元(1213)年、栄西のもとに北
条政子は亡き頼家の子・栄実(13歳)を栄西の
もとに出家させる。
母は法橋(一品房昌寛の娘)、幼名は千寿丸。翌
年建保2(1214)年、京都滞在時に和田氏の残
党に擁立されて襲撃計画が露見し、自殺する。
享年14歳。
源頼朝・北条政子
│
源頼家
│― 一幡(嫡男)、公暁
妾・若狭局(比企能員の娘)
源頼家
|ー 栄実(千寿丸)
妾・法橋
<栄西と源実朝(茶)>
建保2(1214)年2月栄西二日酔いの三代将軍
実朝に茶を進め、その効能を説いた『喫茶養生
記』(茶桑経)を源実朝に献上する。その著書
には飲水(現在の糖尿病)、中風、疱瘡、脚気
の五病に対する桑の効用が説かれている。
建仁寺境内の栄西禅師茶碑
<栄西(建仁寺)と「鎌倉殿」>
後堀川天皇観音寺陵の北には、鎌倉幕府の京
の拠点、六波羅探題(五条から七条の間)が
あった。建仁寺はその北隣に二代将軍源頼家
の援助によって明菴栄西(1141-1215)が
建立した京都最古の禅寺である。栄西は建保
3(1215)年7月5日建仁寺にて没。享年74歳
鎌倉時代の頃の京都
建仁寺(京都市東山区大和大路四条下る4丁目小松町584)
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