「穏やかな日」の鎌倉殿の源実朝は、義時に凄

みをきかされ、幕府の政権は源氏から北条氏に

移る。時代は転換期で、何が真実かわからず、

いつの時代の頃ともよく似ているところがある。

ところで、このドラマの時代は、けっこう、

女性は強かったようだ。

 

<藤原兼子(卿の局)>

藤原兼子(けんし)は卿(きょう)の局と呼ばれ

、後鳥羽上皇の乳母であった。乳母ゆえに天皇の

頃から趣味嗜好を熟知し、上皇になってからも愛

人や美少年を世話しうまく取りいっていた。さら

に当時権勢を誇っていた義兄・源道親(兼子の姉

の夫)と結び、富と権力を欲しいままにし、任官

叙位の権限まで握っていた。

 

 

後鳥羽上皇(尾上松也)  後鳥羽上皇の乳母・藤原兼子(シルビア・グラブ)

 

<九条兼子と北条政子>

兼子は、実朝の後継者について政子と折衝し、自分

が養育した後鳥羽上皇の皇子・頼仁を次期将軍にと

画策したが、これは実現しなかった。

<九条兼子と藤原定家>

歌人・藤原定家は、彼女を狂女呼ばわりしながら、

昇進の斡旋を依頼している(定家日記「明月記」)

兼子はこうして賄賂で得た金や土地・屋敷は、転売

交換して、二条大路近辺の一等地を買占め、財テク、

土地転がしの手腕にも長けていた。

<鎌倉時代の頃の京都>

鎌倉幕府の京の拠点は六波羅に置かれた。初代の六

波羅の探題は北条泰時で、近畿の御家人が、軍事・

警察の一切をしきり、大路の辻48ヶ所に篝屋(かが

りや)がつくられ、京の夜間警備をする。

 

 

 

鎌倉時代の頃の京都

 


京都の九条兼子二条邸跡(推定地)

 

<伊賀局亀菊「荘園」と義時「地頭」>

後鳥羽上皇は白拍子芸が好きで、しばしば遊芸の

宴を催した。上皇の寵愛を受けた伊賀局亀菊はも

と白拍子で、かの女に摂津の国の長江、倉橋の荘

園を与えていた。とろが、将軍実朝が暗殺され、

幕府と朝廷の関係は破綻し、上皇は倒幕の意思を

固め、同年承久元(1219)年3月使者を鎌倉に

下し、亀菊の両の地頭職の罷免を要求する。義時

はこれを拒否し、弟の時房に兵100騎つけ上洛さ

せ、決意のほどを示威した。

 

<三寅と北条政子「尼将軍」>

摂津の国の長江、倉橋の地頭罷免問題をっめぐって

朝廷と幕府が対立するなか、九条道家の子で2歳の

三寅(のちの頼経)が4代将軍として鎌倉に迎えら

れる。三寅は頼朝の妹の曾孫にあたり、父の九条道

家は摂関家の左大臣、親幕府派の九条兼実の孫であ

る。後鳥羽上皇の「摂関家の子なら許可する」と

いい、義時は受け入れる。三寅は、承久元(1219)

年7月19日に鎌倉入りする。そして同年12月27日(

実朝の命日)政子(63歳)はこの幼い将軍にかわっ

て政治を執り行い「尼将軍」と呼ばれる。これを

弟の北条義時が補佐し、鎌倉幕府の実権を掌握する。

 

<「愚管抄」(僧・慈円)>

「愚管抄」は承久の乱が起こる直前に書かれ、著者

の慈円は鳥羽上皇の無謀な討伐計画を批判している。

慈円は、摂関家の名門出身で、天台座主も任じられ

たことがある。藤原氏の摂関政治も、保元の乱以後

武家勢力の台頭は必然で、世の変遷を道理の展開と

とらえ、この書物の目的は、上皇の幕府転覆を阻止

することにあったようだ。「愚管抄」は、7巻から

なり、最初の2巻は和漢の年代記、次の4巻は神武

天皇から順徳天皇までの歴史を、最後の巻は著者の

歴史観を述べている。慈円は歌人としても名高く、

6000首を超える歌が残っている。九条兼実は慈円

の同母兄になる。

 

 

慈円(山寺宏一)と後鳥羽上皇(尾上松也)

 

<鎌倉と京都>

慈円の懸念したとおり、京と鎌倉の関係はうまくゆ

かず。後鳥羽院は、前例を無視して幕府への連絡な

しに、順徳天皇の譲位と4歳の懐成(かねなり)親王

の即位を断行。そして5月、延暦寺・東寺・仁和寺な

どに命じ、義時調伏の修法を行わせ、幕府との全面

対決にふみきることになる。

<九条道家と東福寺>

三寅の父・九条道家は領地に邸宅・東福寺を建立。

奈良の最大の東大寺と最も隆盛したときの興福寺

を模範とし建立する。

 

 

北(手前)から三門、仏殿(本堂)、方丈の東福寺(伽藍)

 

九条家と皇族>

九条兼実を始祖とする九条家。九条家は五摂家の

ひとつで、公家のなかでも家格の頂点に立つ。

九条兼実(1149-1207)は、九条家の祖で、

父の藤原忠通は、摂政・関白を務めている。

条兼実は平氏政権の下18歳の若さで右大臣に就

任(仁安元・1166年)。

その後の九条家。戊辰戦争での九条通孝(奥州鎮撫

総督)はその子孫になる。九条通孝の姉は孝明天皇

の皇后・九条夙子で、ふたりのあいだに出来た子が

明治天皇。また九条通孝の四女・九条節子は大正天

皇の后(貞明皇后)となり、彼女は昭和天皇、秩父

宮、高松宮、三笠宮の実母になる。

その後も九条家は、子女が孝明天皇、大正天皇に嫁

ぐという名門で、皇族の血脈を継いでいる。

現在、皇居にて、また伊勢神宮にて格式ある祭祀は

天皇はじめ皇族(現17人)によって執りおこなわれ

ている。

参考(メモ)

<三寅>

父は九条道家、母は西園寺公経の娘

藤原忠通ー九条兼実ー九条良経ー九条道家ー三寅

九条道家ー三寅(九条頼経・四代将軍)ー頼嗣

九条道家と西園寺公経は縁戚関係で、

親幕派の筆頭格の朝廷役人。

九条兼実の兄が「愚管抄」の慈円。

<坊門信清(1159-1216)>

坊門信清は源頼朝の妹を妻にする。

坊門信清の同母姉(七条院)は高倉天皇に嫁ぎ

尊成(のちの後鳥羽上皇)を出産。

 

 

 

2022.10.16

京都「呪詛(鎌倉殿と北条義時・政子)」ー新京都物語(276)