戦後77年、内憂外患のなか。

岸田内閣は統一教会・国葬問題で、

迷走中。

自民党結党以後、金脈・人脈によ

る政界・財界・官僚の腐敗ぶりが

絶えることなくつづく。

 

田中真紀子

いつの世も新しいタイプの政治家

が求められてきた。

そのひとり田中真紀子は新しい

政治家のタイプだった。

 

田中真紀子と田中角栄

真紀子は古い自民党政治家とは、

まるで発想が違う。

親父がやっていた派閥中心の党運

営なんか、全否定する立場にたつ。

「今の派閥というのはお金とポスト

、どうやってしゅうせいするか、そ

のことだけですから」意味がないと

いう。

世間にはあまり知られていないが、

各省庁のポストの割り振りは、まさ

しく、派閥によって席が決められて

いる。と、いう。

 

 

 

田中首相の外交に同行する娘・真紀子

 

 

留学(時代)
彼女は自民党より保守的リベラルな

、政党としては「さきがけ」にちか

い。

この考えの第一の要因は1960-196

3年の間、アメリカのハイスクールに

留学し、ケネディ大統領時代を体験し

たことが大きい。

また帰国後早稲田で、演劇サークル

「こだま」(久米宏や長塚京三など

所属)で活動していた影響もある。

 

時代(学園紛争)

その時期はベビーブーム世代で、

大学はふくれあがり学園紛争がは

じまった全共闘の時代で、学園の

間にベトナム反戦運動が広がり、

左翼的な運動が広がっていた時代

で、そういうことに加わらなくて

も、時代の空気の影響はなにがし

か受けている。

 

政界

1993年7月衆院選(40回)で旧

新潟3区から無所属立候補。

自民党は3人に公認をだし、現職

の星野行男は新生党で立候補、定

数5に対し真紀子はトップで初当

選する。

 

翌1994年6月村山内閣で、1年

生議員ながら科学技術庁長官に

初入閣し、与党内野党的な立場

から発言し、先進的発想をもち、

教育実習にボランティア活動の

義務化を実現させる。

1996年10月衆院選(41回)で

新潟5区から自民党公認で立候補。

新進党の公認で現職の星野行男ら

を破り再選を果たす。

 

官僚と大臣

1996年1月菅直人は橋本龍太郎

内閣の厚生大臣になり、三日目に

、真紀子(厚生委員)を訪ね、「

エイズ問題をやろうとおもってい

るが」と言われ「当然やるべきで

す」という。

「だから、大臣に気合があるかど

うかですよ、腰砕けになったら終

わってしまいます」と言ったこの

言葉が、現実にそのままふりかえ

ってくる。

 

自民党(外務大臣)

2001年小泉首相誕生に総裁選の

応援を買ってで、当選に寄与し、

女性初の外務大臣に就任する。

 

同年1月要人外国訪問支援室長に

よる機密費流

用事件のさなかにあり、当時の室

長が約4200万円の搾取容疑で逮

捕される。

流用した金は競走馬購入、高級マ

ンション購入、女性への現金供与

に使われる。

結果、外務省幹部20人余が監督

責任を問われ、懲戒減給などの処

分を受ける。

就任にあたり、「聞く必要ない、

再処分が必要」と幹部の粛清にあ

たる。

 

2002年1月に真紀子外相を更迭

される。ターニングポイントと

なったのが、事務方との対立。

当時世論はこの更迭に反対、小泉

内閣支持率31%に急落する。

翌年2002年8月真紀子自身の公

設秘書の流用疑惑が起こり、この

責任をとるかたちで議員辞職する。

 

「裸の女王さま」

何がいけなかったか。早坂茂三(

角栄の元秘書)はいう。

真紀子外相は、自分に対する注意

は、嫌がらせ、直言は恫喝、批判

は攻撃と受け止めてしまう。

 

角さんは官僚を「わきは甘く、懐

は深く」で包み込んだが、娘はそ

の正反対で、このままでは外相の

もとに肝心の情報が集まらず、

『裸の女王さま』になる。

政権の目玉が今や政権のアキレス

腱となっている」という(週刊朝

日・2001.5.25「真紀子vs外務

省」)。

 

「ハート」

何が大切か。角栄のあの一言。

大蔵署、どの省でも「みんな思う

存分仕事をしてくれ」といい、「

失敗を恐れるな、失敗は俺が全部責

任をとる」と。

このひとについていけばという、リ

ーダのハートがあった。

 

田中真紀子「疑惑」

目白の田中邸、信濃川河川敷はじめ

田中家の金脈財産は、それを支配す

る新たなユーレイ会社をつくり、真

紀子、亭主・直紀、息子・雄一郎が

その株主になり税金を払わずにのち

に78億円もの申告を漏れを指摘され

る。

立花隆いう。

秘書疑惑といい、親父に「公人なら

身辺をきちんとしてください」と助

言したのを思い出す。

真紀子は、複雑怪奇な経理操作をし、

税金らしい税金を払わなかった。

 

以上2002年8月文藝春秋刊。(文庫

化にあたり、『「田中真紀子」研究』

を改題する。2005.8)もとに書く。

 

 

2002年8月文藝春秋刊。(『「田中真紀子」研究』を改題)

 

 

田中真紀子「それから後」

それからの後。

2003年11月衆院選(43回)に当選

し国政へ復帰。

院内会派の民主党・無所属クラブには

いり、自民党を攻撃する。

 

その後民主党にはいり(2009.8)同

年9月鳩山由紀夫内閣のもと文部科学

委員長、2012年9月野田首相再選を

支持し、野田第三次改造内閣では、文

部科学大臣に任命され、2001年の第

一次小泉内閣以来約11年ぶりに3度目

の入閣を果たす。

 

2012年12月現職閣僚として衆院選に

挑むが、新潟5区で自民党の長尾忠実

に3万票近い差をつけられ、比例復活

もならず落選する。

 

同年の12月16日は父角栄の死去から

19年になる。田中真紀子は2017.10

月衆院選新潟5区補欠選挙に出馬せず、

真紀子は政界から引退のかたちをとる。

 

 

鄧小平が田中邸を訪問(田中角栄・田中真紀子、1978.10.24)

 

 

参考(メモ)

昭和元(1926) 年

昭和2(1927)  年  田中義一(内閣、昭和4没)

昭和3(1928)  年      久原房之介(鮎川義介)

昭和7(1932)  年  満州国(「弐キ参スケ」)

           (東条英機・岸信介・鮎川義介他)

昭和16(1941)年  第二次世界大戦「開戦」

昭和20(1945)年  終戦「敗戦」

昭和21(1946)年  東京裁判 吉田茂(政党内閣)

昭和22(1947)年  片山哲内閣 

           田中角栄(民主党)初当選

昭和23(1948)年  昭和電工事件(GHQ関与)

           炭鉱疑獄10月

昭和25(1950)年  朝鮮戦争(~1953)

昭和26(1951)年  日米安保条約

昭和29(1954)年  吉田内閣(1948-1954)

           自由民主党結成

           鳩山一郎内閣(1954.12-1956)

昭和30(1955)年  自由民主党結成

昭和31(1956)年  赤線廃止

昭和35(1960)年  日米安保条約(改定)

           池田勇人内閣(1960-1964)

昭和39(1964)年  佐藤栄作内閣(1964-1972)

昭和47(1972)年  田中角栄内閣(1972-1974)

昭和49(1974)年  三木内閣、児玉誉士夫「自伝」

昭和51(1976)年  ロッキード事件、福田内閣

昭和53(1978)年  大平内閣

昭和55(1980)年  鈴木内閣

昭和56(1981)年  「蜂の一刺」

昭和57(1982)年  中曽根内閣

昭和62(1987)年  竹下内閣

平成 元(1990)年  宇野内閣

平成  2(1990)年  海部内閣 角栄政界引退・越山会解散

平成  5(1993)年      細川連立内閣 角栄死去12.6

平成  6(1994)年  「私の角栄日記」(佐藤昭子)

平成13(2001)年  小泉内閣

平成14(2002)年  田中真紀子(外務大臣)

平成16(2004)年  「熱情」(辻和子)

平成17(2005)年  「田中角栄」(佐藤昭子)

平成21(2008)年  鳩山由紀夫内閣

平成22(2010)年  菅直人内閣

平成23(2011)年  野田佳彦内閣

平成24(2012)年  安倍内閣

令和  2(2020)年  菅内閣

令和  3(2021)年  岸田内閣

令和  4(2022)年      安倍晋三(銃撃事件)

 

 

 

2022.9.2

辻和子「熱情」(角栄を虜にした芸者)ー新東京物語(89)

2022.9.3

佐藤昭子「越山会の女王」ー新東京物語(90)