靖国神社周辺には戦没者慰霊の碑があり、

そのひとつ濠北方面戦没者慰霊碑(九段北)

がある。

 

 

靖国神社

 

豊嶋房太郎「濠北方面戦没者慰霊碑」

この碑の正面に「魂」とあり、背壁右に

「濠北方面戦跡図」、同背壁左に「明治

天皇御制」が銅板に刻印される。

昭和39(1964)年11月3日「濠北方面

戦没者慰霊會 会長 豊嶋房太郎謹書」

とある。

 

 

「濠北方面戦没者慰霊碑」(昭和39・1964年建立)

 

ロシアと日本(尼港事件「ニコラエフスク惨劇」)

この場所には、かつて大正9(1920)年の

ニコライエフスク惨劇の記念・女神像が建立

されていたが、これにかわり濠北方面戦没者

慰霊碑が建立されて今に在る。

ところで帝国在郷軍事により建立された惨劇

の記念像は「尼港事件」と称される。

 

 

 

慰霊碑建立前にあったロシアでの「尼港事件(ニコラエフスク惨劇)像」

 

 

ロシア革命(尼港事件)

ロシア革命のあと、ロシア国内で内戦が起こ

り、1920年の春から夏にかけた尼港事件は、

赤軍パルチザンによって占領され町では、6

000人の住民が虐殺され、建物はことごとく

破壊され、廃墟となる。

犠牲者はロシア人だけでなく、日本人居留民

と日本軍守備隊およそ700名余が含まれ、国

際的批判を浴びるこ

とになる。

 

シベリア出兵(尼港事件)

尼港事件が、日本国内で6月になり報道され、

原敬首相は「事件が起こったのは不可効力だ

った」といい、田中義一陸軍大臣にも責任問

題が追及され、田中義一は職を辞し、シベリ

ア出兵は撤退の方向に向う。

帝国海軍は砕氷艦を持たなかったために在留

邦人を見殺したために事件翌年砕氷艦大泊を

進水させる。

アムール川の主要港の二コラエフスクは、19

26年に二コラエフスク・ナアムーレと改称す

る。

 

尼港事件(慰霊碑)

尼港事件後、現地をおとずれたあと、各地で

法要、慰霊につとめる。

北海道の小樽市では、遺骨を小樽で永久保存

しようとなり、昭和12(1937)に手宮(小

樽市)に慰霊碑や納骨堂を建立する。

第二次世界大戦後、小樽に進駐してきたアメ

リカの進駐軍から「破壊せよ」と命があった

が、小樽市民はこれを守りとおす。

 

 

 

 

豊嶋房太郎(慰霊碑「橘丸事件」)>

豊嶋房太郎(1889-1979)は山口県出身、

昭和15(1940)年8月陸軍中将に進み、憲兵

司令官に就任、同年9月第3師団長として日中

戦争に出征。

 

1941年12月留守近衛師団長として太平洋戦

争を迎え、1943年6月近衛第一師団長となり、

同年10月第2軍司令官に発令され、ニューギ

ニアの戦いなどで苦戦を続ける。

 

 

 

 

豊嶋房太郎(橘丸事件)

1945年8月3日アメリカ海軍駆逐艦がバンダ

海を航行中の橘丸に停船命令をだし探索。

看護婦、怪我患者がおらず弾薬・大砲があり、

日本陸軍が、病院船と称し国際法に違反し、

日本陸軍創設史上最も多い約1500名の捕虜

をだす。

将兵はフィリピン・マニラの捕虜収容所に移

送される。

第二次世界大戦後

戦没者慰霊碑(尼港事件・橘丸事件)

昭和21(1946)年3月豊嶋は復員するが、

同年5月橘丸事件の戦犯容疑で収容され、昭

和23(1948)年4月重労働3年の有罪判決

を受ける。

ニューギニアマヌス島で服役するが、1950

年7月オーストラリア・マヌス裁判で無罪判

決を受ける。

1961年3月日本傷痍軍人会長になり、「尼

港事件」記念像の場所に、1964年に「濠

北方面戦没者慰霊碑」を建立する。

 

 

 

「尼港事件(ニコラエフスク惨劇)像」の地に「濠北方面戦没者慰霊碑」

 

「尼港事件」記念像が、いつ、なぜ、撤去され

たかはわからず調査中だという。慰霊碑建立者

の豊嶋房太郎は1961年から1969年まで日本傷

痍軍人会会長を務める。

 

 

 

 

2022.8.8

靖国神社(皇室と華族「戦争勲功」)ー新東京物語(50)