コロナ禍の中、世界の情勢が報道される。

戦前、戦後の姿を改めて知ることになる。

靖国神社にゆく。

明治維新から110年、戦後78年になる。

 

(大政奉還・王政復古)

慶応3(1867)年1月9日。

前年孝明天皇が急死し、睦仁親王(16歳)で

元服前に践祚。4年前に尊王攘夷派で追放され

ていた公卿の赦免が相次ぎ、倒幕強行派の公卿・

岩倉具視も復帰する。朝廷の空気は、幕府協調

から倒幕、王政復古へ急激に動いてゆく。

同年10月6日 長州藩・品川弥次郎(25歳)

と大久保利通は、中御門経之、岩倉具視と面談

する。このとき、倒幕と摂関制度廃止など、大

政復古策を協議する。この品川弥次郎が靖国神社

の入り口付近に品川弥次郎銅像がある。

 

 

大久保利通・岩倉具視と明治維新で活躍する品川弥次郎(長州藩)

 

(大久保利通「創業の時期」)

明治11年5月14日朝、福島県令山吉盛典が

大久保邸を訪ねる。このとき大久保は彼に、

王政復古10年を経たが、兵事が多くある創

業の時期で、明治11年から20年の10年

間は第二期で、「内地を整え民産を殖する

のはこの時期である」と述べ、自分がその

ことに率先して当たると言い、その後は「

守成の時期」で、これは後進賢者が受け継

いでくれるであろうと語った。このあと大

久保は、馬車で太政官に出勤したが、その

途中、赤坂の紀尾井坂で、石川県士族島田

一郎ら征韓派士族6人に襲われ亡くなる。西

南戦争後であらな方向を模索していたときだ

けに大きな衝撃を与える。明治10年の木戸、

西郷に次いで大久保利通の維新の三傑が世

を去る。明治11(1878)年5月14日

大久保利通没47歳。

 

 

左から木戸孝充、山口尚芳、岩倉具視、伊東博文、大久保利通

 

<靖国神社「華族会館」>

靖国神社の鳥居横にには「華族会館」と刻印

がある灯籠がある。

 

 

華族の総括者・岩倉具視設立の「華族会館」(明治7年)

 

(岩倉具視「華族会館」)

岩倉具視(1825-1833)は、維新三傑の3人が

亡くなった後も天皇を中心にした国づくりに凄

腕を発揮する。

岩倉は、経済的弱い立場にある下級公家の救済

に力をいれ、三條実美と組織の統一をはかり、

明治7年に設立した華族会館の館長として、華

族の統括者となる(明治9年)。岩倉は、華族

を宮内庁の管轄に置き、華族の家産の合同を図

り、華族のための銀行である第十五国立銀行の

設立を実現させる。(明治10年)

 

(岩倉具視・伊藤博文「大日本帝国憲法」)

岩倉は、憲法に関する意見書を、三条実美に

提出(明治14年7月)。これは、議員内

制をとらない井上毅の案で、あわせ大久保

の後継者として、伊藤博文を指名する。北海

道開拓使官有物払い下げの計画が報道され、

岩倉邸で井上、伊藤らが協議する。結果、大

隈重信が明治天皇行幸に同行する間、国会開

設の勅諭公布と大隈罷免の実行を決める。

天皇(30歳)の帰京後に裁許を得、「明治2

3年を期して国会を開設する」勅諭が下り、

官有物払い下げ中止にあわせ大隈が免職され

る(「明治14年の政変」)。この政変によ

、薩長藩閥政府の体制ができ、明治憲法制

への道筋をつくる。2年後明治16(1883)

年7月20日没57歳。

 

国会開設の前年明治22年に大日本帝国憲法が

布され、皇室典範が制定される。

 

 

靖国神社(東京都千代田区)

 

2022.8.7

靖国神社ー新東京物語(48)