戦後78年の日本。

ロシアのウクライナ侵攻は長期化。

ニュースで靖国神社が登壇する夏。

 

東京の九段坂にある靖国神社。

靖国神社の参詣道には、大村益次郎の銅像

などがあり、明治維新以来の日本の歴史を、

東京の移りかわる姿を知る。

 

(靖国神社)

 

 

靖国神社拝殿

 

(明治2(1869)年「東京招魂社」)

靖国神社は戊辰戦争のあと。慶応4(1968)年

に東征大総督有栖川宮熾仁親王が戦没した官軍

(朝廷方)将校の招魂祭を江戸城、京都などで

戦死者を祀ることを命じ、各地で慰霊、顕彰す

る動きがおこる。このなか大村益次郎は、東京

に招魂社を創建することを献策し、明治2(18

69)年旧暦6月29日(8月6日)に、ときの軍

務知事仁和寺宮嘉彰親王を祭主に戊辰の戦没者

3588柱を合祀鎮祭として創建される。のち本

殿が竣工されるのは明治5(1872)年になる。

(明治12(1879)年「靖国神社」)

軍当局は正規な神社へ改めるよう、社名の変更、

列格を要請し、明治天皇の裁可を得て、明治12

年6月に「靖国神社」への改称と別格官幣社列

格の太政官達が発せられる。内務省が職員の人

事権を、運営の主導権は財政を担う陸軍省が有

し、創祀以後天皇・皇后の行幸啓、皇族の参拝

や代参あり、国家から臣下を祀る神社として異

例の待遇を受ける。祭主は、陸・海軍武官が勤

め、明治34(1891)年陸軍省は、維新前後の

国事受難者1277名を合祀する。

 

(大村益次郎銅像)

日本で明治維新後に内乱が起こる。

江戸城が無血開城後に旧幕府軍が抵抗つづけ

るなか、慶応4(1868)年5月東征軍総指揮

の大村益次郎、西郷隆盛(参謀)の兵が上野

を包囲し、同年5月15日早朝、戦闘開始し激

戦となるが、アームストロング砲が彰義隊の

陣地を破壊し約10時間で終結する。のち1年

4ヶ月にわたる戊辰戦争が終結する。同年6月

29日大村益次郎の建議により、戊辰戦争の政

府側戦死者を慰霊するために、新政府は東京

の九段に招致社(のちの靖国神社)を建立する。

 

 

大村益次郎銅像

 

明治2年9月、大村益次郎は兵学校設立下準備

で出かけた京都にて、長州藩の7、8人の刺客

に襲われる。大村は長州藩の兵制の近代化に

つとめ、新政府では、後の日本陸軍創設の中

心となる。大村益次郎(1825-1869)は明

治2年11月15日永眠、享年45歳

 

(品川弥次郎銅像)

 

 

品川弥次郎銅像(東京都千代田区九段南2丁目九段坂公園内)

 

靖国通り(302号線)の交差点左すぐに品川弥

次郎銅像があり、明治40(1907)年に建立。

。品川弥次郎(1843-1900)は長州藩萩に生

まれ、吉田松陰の松下村塾で学ぶ。戊辰戦争で

活躍後、新政府で内務大臣を歴任。

 

(豊嶋房太郎の碑

参詣道右早稲田通り入口に豊嶋房太郎

(1889-1979)の碑がある。日本傷痍

軍人会会長(1961-1969)

 

 

豊嶋房太郎碑

 

(第二次世界大戦後「靖国神社」)

GHQは占領期間中、靖国神社の存続を苦慮す

る。GHQ宗教課の特別調査班が信教の自由の

観点から調査いている間に国際情勢が変化し、

アメリカ政府は、共産主義国家に対抗する外

交政策に軸を移し、日本を同盟国に変える政

策に転換する。昭和26(1953)年には日本

遺族厚生連盟(1947)は日本遺族会へと発

展する。

 

戦後、政教分離政策の推進により靖国神社は

国家管理から宗教法人となる。靖国神社には

1853年以降の受難者、戦死者約250万柱を

祀る。日本政府との関係は無くなったものの、

軍人を祭神として祀ることや公職に就く者の

参拝、それに伴う玉串料の奉納などが批判さ

れ、さまざまな問題が生じている。

 

1985年中曽根康弘は戦後初めて首相とし

て公式参拝を行い、韓国・中国は、首相の

公式参拝は過去の侵略戦争を正当化するも

のとして、強い反発を招く。これ以後公式

参拝は中止される。

 

2001年8月小泉純一郎首相が参拝し再び

近隣諸国から抗議を受ける。さらに領土

問題、歴史認識問題で、韓国・中国との

関係が悪化するなか、2013年安倍首相

が参拝し、これに韓国・中国は強く抗議

する。韓国民のなかに、35年に及ぶ日韓

併合(1910-1945)の反日感情があり

、元徴用工への賠償問題はじめ、中国も

同じく、現在も第二次世界大戦後とかわ

らない状況下にある。

 

 

 

 

2022.8.6

住友財閥(住友友純「楠木像」)ー新東京物語(47)