東京のなかで最古の寺の浅草寺。

この浅草寺で起こったことを通して、首都

の東京で何があったかを知ることができる。

 

 

浅草寺(浅草観音堂前の宝雷門)

 

大正12(1923)年9月1日に東京を中心に

関東地方に大震災が起こる。死者10万余

人、焼失家屋40万戸に達する。

 

 

関東大震災のときの浅草観音周辺(東京都台東区1923.9.1)

 

宮武外骨と関東大震災

関東大震災が起こったとき、宮武外骨

(1867-1933)は、関東大震災を「

詳密に之を録して天下に示し、併せて後

世に垂るべき大事変なり」と、実地にゆ

き、目撃したことを、『震災画報』(半

狂堂・全6冊)に掲載・発行する。

 

 

『震災画報』(西郷銅像の尋ね人貼紙数百枚など挿絵挿入)

 

宮武外骨と「我妻(五人の女性)

奇人・反骨のジャーナリストで知られた外骨。

ひとの言動には、因(理由)と果(結果)が

あり表(表面)だけではわかりずらく、裏が

あるという。外骨は、かれの妻となった5人

の女性について綴る(『自家性的犠牲史』)。

 

外骨と房子

外骨17歳、房子17歳のふたりは結婚に反対

され讃岐から東京へゆく。房子は住み込みで

奉公勤めをする。事業成功後、房子を呼び戻

さず、放蕩に耽る。外骨曰く、「若気の無法

とは云ひながら棄てヽ顧みなかった薄情さは

人非人の極みであった。」と回顧する。

 

 

 

外骨が房子を船で連れ出す(「自家性的犠牲史」)

 

外骨と八節

外骨出獄後(明治24年)から24年間、苦楽

を共にした妻八節。大正4年に外骨は大阪か

ら東京に転居する。

同年11月妻・八節(44歳)病で亡くなる。

このときふたりの間にできた男の子(1歳)

を亡くしとき養子にもらった三千代は15歳

になっていた。

外骨は妻亡き後、何も手がつかなくなり、医

師のすすめで、茶遊びを重ね、妻の想いを断

つようにする。

2年後に娘・三千代は吉野作造の新人会の石

川清に嫁ぎ、翌年三千代(19歳)は病で亡

くなる。

こうして外骨は自分の姓である宮武を廃止、

姓とか氏は無くても好いものと思い、以後

「廃姓外骨」と名乗り、同年大正10年4月

創刊の雑誌『一癖随筆』にて「廃姓広告」

を掲載する。

 

 

宮武外骨『一筆随筆』の「廃姓広告」

 

外骨とマチ

娘を嫁がせ、自炊自給の独居となった外骨

56歳。

大正11年に舞い込んできた「遊女の果」の

小清水マチは26歳で、翌年1923年9月1日

に関東大震災が起こる。

マチと同棲し4年後に入籍するが、マチは住

み込みの書生と密通する(昭和3・1928

年)。外骨は現場を押さえ、離縁を申し渡し、

マチは服毒死する(享年34歳)。

 

外骨は、自分の生涯を「自家性的犠牲死」で

道徳的に見れば性的生活の懺悔録

文学的に見れば小説戯作の好資料

社会的に見れば現在制度の犠牲史

宗教的に見れば悪因悪化の悲惨記

だという。

 

外骨と能子

外骨73歳のとき版元の長女・稲田能子(35歳)

と結婚する。38歳の年下の能子は、丙午(ひ

のえうま)生まれで、婚期が遅れ初婚となる。

外骨は最後の妻能子に看取られて昭和30年7月

亡くなる。享年88歳外骨。

 

宮武外骨と我妻(五

外骨は、最初の房子以外の4人の女性を妻にし

入籍しており、結婚による死別であった。

当時、年の差が違う女性との結婚で、世間の注

目を集める。常識にとらわれなかった外骨は、

時代のなかで、より奇人と呼ばれることになる。

 

 

参考(宮武外骨)

慶応3(1867)年  外骨誕生

慶応4(1868)年  江戸から東京、明治に改元(7月)

明治13(1880)年  河鍋暁斎「新富座妖怪引幕」(仮名垣魯文)

明治18(1885)年  月岡芳年「奥州安達が原]

明治22(1889)年    暁斎没、大日本帝国憲法発布、

           宮武外骨「頓智憲法」

明治25(1892)年    月岡芳年没

大正元(1912) 年

大正12(1923)年  関東大震災(9月1日)

昭和元(1926) 年

昭和9(1934)  年     外骨雪冤祝賀会(小林一三) 

昭和30(1955)年  外骨没

 

 

 

上野(東京都台東区)と浅草寺(東京都台東区)

 

 

2022.7.30

宮武外骨(二重橋「頓智研法」)ー新東京物語(32)