街の高台の池の周辺を散策。

このとき、ふと、大河ドラマの誘致の

ことを想った。

 

全国の街の誰しもが大河ドラマの舞台

の地にと望むが。

全国的に知られた人物となるとどうも

難しい。昨夜、滞在先のホテルで泊ま

り、ベッドでかの女と夢の中にいた。

 

 

 

大原池から見る町役場

 

町の駅前に銅像を建てることだ。

そこで、想いついたのが、中井貴一(担当

者)が演じた二役の高橋至時(1764-1804

)の息子・高橋景保(1785-1829)を主人

公にした映画「大河への道」だった。

 

50歳もちがう伊能忠敬が父に弟子入り。

伊能忠敬の死後もその遺志を継ぎ、名もな

き人々が日本全国の地図を完成させるとい

うドラマだ。

 

高橋景保は、父と同じく毎夜星を観測して

いた。

ところで。この星を観測する天体望遠鏡は、

武士でもない街(貝塚市脇浜新町)の魚屋

・岩橋善兵衛(1756-1811)が発明した

ものを高橋至時や間重富に使われ、岩橋家

はその後4代にわたり望遠鏡を制作する。

 

このとき、熊取の中盛彬(1781-1858)

が岩橋善兵衛に弟子入り(1845年)して

いる。

中盛彬岸和田藩七人庄屋のひとりで、藩主

ー家老ー中老・城代ー藩士(約500人)、

そして七人庄屋とくる身分。岸和田藩108

ヶ村あるなかの34ヶ村を熊取谷の中家の両

家が郷士代官として掌握・配下としていた。

中盛彬の著書「仮李素免獨語」による岩橋善

兵衛とは。

 

ある日、つれづれなりしに酒呑み議論せしき

とき、

極楽も地獄もおのが身にありて

  いのち終われば ともに消ゆく

おのづからわれも一種の虫なりと

  しらぬはさわぎ しるはたのしむ

又元日の句はおかし

  阿蘭陀の いねつむころよ 初日影

望月の句も抱服なり

しゅみせん(須弥山)の合わせかがみか

けふ(今日)の月心術のむかふ処、口の

はくとこりろ、わ(我)も深くまじわり

しが、さりし酉のとし六月みまかりぬ。

 

そこでだ。「大河への道」のはじめの第

一歩に、泉州

の郷土「かりそめのひとりごと」の著者で、

岩橋善兵衛に弟子入りした中盛彬の銅像を

熊取駅前に建立する。

 

 

平天儀で天文学を研究する中盛彬

 

そして、貝塚市と連携し、南海本線貝塚駅前、

JR東貝塚駅前、水間鉄道水間寺駅前には岩橋

善兵衛の銅像を建立する。

 

 

善兵衛ランド(貝塚市三ツ松216)の岩橋善兵衛像

 

岩橋善兵衛は、どうも艶なる話がない。

ドラマには男と女の物語がいる。

星を毎夜観測した男の地は堀江で、堀江と

いえば、道頓堀川の北、格式ある堀江遊郭

がある新地だ。かつて落語「たばこの火」

でも知られた豪商食野一族、その縁戚中家

一統の商いの土地だ。泉佐野市にも働きか

け、応援してもりたててもらう。

 

大坂・堀江周辺の星路は岩橋善兵衛とゆか

りがある。

間重富(長涯)は、長堀川の冨田屋橋で、

毎夜天体観測する。その間長涯は傘屋職人

の宗吉を江戸の大槻玄沢のもとに、経済支

援をし、蘭学を学ばせる。

その橋本宗吉は帰坂後蘭学塾絲漢堂を開く。

橋本宗吉「エレキテル究理原」の序文は伏

屋素狄が書き、伏屋素狄は、北堀江のあみ

だ池の場所に塾を開く。

 

秀吉の大坂城築城の頃。

新町のいづみ屋の史跡「ここに砂場ありき

」があるが、根来盛重(旗本・堺奉行)を

祖とする中家のものが商いする。

その中家の主・中喜久多は、橋本宗吉の著書

をもとにエレキテルの実験を彼の屋敷(現大

阪府泉南郡熊取町五門)でする。

このときに橋本宗吉は岩橋善兵衛が描いた実

験図を模写し、世に「これほど愉快なはなし

は無い」と本で紹介する。

 


 

岩橋善兵衛は文化8(1811)年5月25日没する。

 

 

岩橋善兵衛の墓は海塚町墓地(貝塚市海塚3丁目16-1)

 

文化8(1811)年5月25日没享年56歳。

墓石に辞世の歌が刻印される。 

   今死ぬる既に燃火の焼失で

      無量寿仏となるぞ嬉しき   岩橋耕珋堂

 

 

 

大河ドラマの脚本は三谷幸喜に。

三谷幸喜が駄目なら町長は担当者に弟子

入りさせて欲しい。

 

新しき時の流れよ、なお未知の世界よ

とびたて われらの夢 大河への道

時を越えて きみのそばに ぼくがいる

夢の星路は 大河への道。

 

ぼくは、ベッドで、観光課長・高橋景子

に似た女性と夢のなかで夢をみる。

 

 

 

2022.6.22

高石市(河口「高石高校」)ー新大阪物語(037)