幕末・明治の浮世絵師月岡芳年。

芳年(1839-1892)は絵の名人でその

絵を称し畸人とも謳われた作品を世にだす。

 

<月岡芳年と「魁題(かいだい)百撰相」>

明治元(1868)年、5月18日未明。

新政府は上野寛永寺一帯に立て籠る彰義隊に

総攻撃をかけ、隊はほぼ全滅。芳年は戦いの

後上野にゆき、死屍累々たる惨状を見る。

大村益次郎が指揮する新政府軍と旧幕府軍の

彰義隊との戦いを見立て描いたもので、各人物

を過去の人物に仮託した作で全65図に及ぶ。

(武者絵『駒木根八兵衛』)

駒木根八兵衛は小西行長の家臣、主家滅亡後

島原の一揆に加わり、討手の大将・板倉重昌を討つ。

(武者絵『森力丸』)

織田信長の小姓で、森蘭丸の弟。本能寺の変で討ち

死。敵の首級2つぶらさげた森力丸。

 

 

 

 

<新聞の挿絵>

新聞雄の挿絵を描いた月岡芳年。

新聞は明治時代に瓦版にかわり初めて誕生、大新聞

東京日々新聞」を元記事にし、錦絵新聞が絵草子屋

から明治7年に発行される。歌川国芳門下の芳幾と芳

年が二枚看板で東京土産にされるほど流行する。

錦絵新聞がかげりを見せる頃、小説や挿絵を載せた庶

民向けの小新聞が台頭しだす。このとき各新聞社は芳年

の争奪戦がくり広げられる。芳年は西洋の翻訳小説の挿

絵も手がけ、また活字印刷によって「八犬伝」などの江戸

戯作の復刻版が再び流行を見せさらに人気を呼ぶ。

 

 

「郵便報知新聞589号」(離縁した夫が深夜妻の家に忍んだ明治8年の事件)

 

明治10(1877)年西南戦争が勃発、この戦争を題材

にした錦絵の需要が高まり、実際見てはいないがこ

れを描く。

 

 

明治18(1885)年に描いた「奥州安達が原ひとつ家

の図」が代表作になるが、当時の東京府の人気

付けでも「東京流行細身記」で筆頭になり、錦絵の

第一人者となる。

 

<月岡芳年と「風俗三十二相」>

芳年は女性の心を絵に表現する。

「風俗三十二相」では、女性の表情と仕草で

「かわいそう」、「うれしそう」などと江戸23人、

明治9人の全32点からなる女性の揃物を描く。

明治21年から22年の作品で32人の女性たち

のこころを顔の相などで描く。

(けむそう)

享和年間(1801-1804)の婦人内室の風俗。

夏の日に蚊遣を焚いた女性、煙たそうで、団扇で

煙を払いのけようとしている。

 

 

(かゆそう)

嘉永年間(1848-1854)かこゐものの風ぞく。

蚊にさされ、かゆさのあまり蚊帳から房をあらわ

に抜け、眉を秘め、困った表情の眼差し。この女性

は、かこいものの妾。

 

 

月岡芳年(明治15年・1882)

「明治名人伝」による。

故国芳門下で名ある者すくなからざるが、中に出藍

の誉なるは此人なり。通称を米次郎といひ、一魁斎、

大蘇等の号あり。近年菊池容斎が画風を慕ひて人物

の動静神に入ざるはなし。殊に武者と芸妓を写すに

妙を得たるは、故人も若ず。かつ性質磊々落々として、

巨額の潤筆を得るとも、酒食に費やし絃妓を聘して一

時に参事、孤独にして清貧を楽しむは、実に図工中の

一畸人といふべき者なり。

月岡芳年、明治25(1892)年の「やまと新聞」で「昨年来

の精神病の気味は快方に向かい、自宅で加療中、他の

病気に襲われた」とあり、10月8日永眠、享年54歳。

 

 

 

2021.7.19

月岡芳年の発禁絵