150年以上も経つと不可解に思えるが。
時勢のなかでひとは生きているようだ。
最後の将軍・徳川慶喜の男と女の物語。
<慶喜と一色須賀>
一色須賀は、慶喜が10代の頃から死ぬま
で仕えていた。
天保9(1838)年に旗本の娘として誕生
した須賀は、6歳の頃から叔母について一
橋家の奉公にあがっている。
慶喜(1837-1913)は水戸家から一橋
家の養子にくるが須賀とはほぼ同じ年だっ
た。
須賀は側室と同じような「お手つき」かど
うか不明だが、慶喜が京都に住んでいる間、
須賀は、一橋邸にて、慶喜から正室の美賀
子(公卿一条忠香の娘)を守り、一橋家の
奥をたばねるように任せられていた。
須賀は水戸家では木綿を日常着にするのが
慣わしだが、慶喜の身に着けるものは、下
着まで一切絹物にしたという。
須賀は慶喜・夫人の死を見届けたあと、墓
は上野寛永寺の慶喜墓所に葬られる。
<側室の新村信と中根幸>
新村信(1852ー)は旗本・松平の娘で荒
井家の養女に出されのちに一橋家用人の新
村猛雄の養女になる。
信は慶喜より15歳年下で婚約者がいたが、
慶喜公に見染められ側室になったと、縁
者が言う。
中根幸は旗本・中根の娘で、同じく旗本
の成田の養女として側室に入り、年は慶
喜より14歳年下だった。
ー江戸城「大奥」ー
最後の将軍慶喜の「大奥」は、はっきり
しないことが多い。
慶喜が将軍になり江戸城に入るのが、鳥
羽伏見の戦いに敗れ、大阪から江戸へ急
ぎ戻り、謹慎するわずかな期間だった。
この時期の江戸城は本丸、西丸はなく、
火災で焼失したあとの仮御殿で、大奥に
は天璋院篤子と静寛院宮(和宮)がいて、
慶喜の夫人の美賀子は平川門外の一橋邸
にいた。
<二条城「大奥」と芳>
慶喜は京都で将軍職を継ぎ、住まいは
二条城で、将軍の居室にあてられた仮
御殿が大奥となった。
美賀子夫人は江戸におり、二条城には
側室が10人はいたとも伝えられる。
その内のひとり、芳は江戸の侠客・新
門辰五郎の娘で、慶喜は江戸から京都
にゆくとき、辰五郎を護衛と情報収取
にあたらせる。
このときに辰五郎の娘は慶喜の側室に
なる。
芳は、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗れ、
大坂城から江戸城に小舟、軍艦で逃げ戻
るとき同行してしていたのが芳だった。
それ以後の芳についてはわからず。
二条城(京都市中京区二条通り堀川西入)の唐門・二の丸御殿
<徳川慶喜と側室>
将軍を継いだ慶喜は写真を撮るとき、
3人の側室、辰五郎の娘・芳と幕臣の
娘の新村信と中根幸を選んだという。
慶喜の側室で名がわかっているのはこ
の3名だけ。
維新後、静岡に隠居たした慶喜は信と
幸だけを側に残した。
二人の産んだ子で、成長したのはそれ
ぞれ6人。
側室とはいっても、新村信と中根幸は
公爵夫人で、「今日は帝劇、明日は三
越」と晩年を過ごし、死後上野寛永寺
の慶喜墓所に埋葬される。
新村信が産んだ子の慶久が公爵家を継ぐ。
寛永寺(東京都台東区上野桜木1丁目)
2021.3.20
2021.6.18
中山忠光と中山神社(「愛新覚羅社」)ー男と女の物語(132)
2021.6.29