禁門の変後に最悪の関係だった長州藩と
薩摩藩。
慶応2年長州藩・木戸孝允が入京し、薩
摩藩邸に入り、同月1月に土佐藩士・坂
本龍馬も入京する。
同年慶応2(1866)年1月22日。
坂本龍馬の斡旋により、京都の薩摩藩邸で
会見した木戸孝允と西郷隆盛、大久保利通、
小松帯刀が薩長同盟を密約する。
薩長同盟後
慶応2(1866)年。
1月23日龍馬が伏見の船宿・寺田屋で幕府
の捕吏に襲撃される。
負傷した龍馬は薩摩藩邸に避難、2月1日に
京の同藩邸へ移動。
長州藩・薩摩藩
2月6日木戸孝允、山口に帰り藩主・毛利
敬親に薩長提携を報告。
3月21日長州藩・高杉晋作(28)と伊藤
博文が長崎で薩摩藩士・市来四郎(38)
と会見する。上海での薩英会商に伊藤が同
行。
4月14日大久保利通が大坂城へ登城し、長
州再征に際して出兵を拒否するとの書面を、
老中・板倉勝静(44)へ提出。
幕府とイギリス
4月21日英弁利公使・バークスが、幕府に
馬関戦争
賠償金支払いを延期する一方で製鉄所建設
に巨費を投じていると幕府を非難する。
4月22日幕府は大阪周辺の豪商、鴻池善右
衛門(26)にらに対し、長州征伐の軍資金
として約253万両献金を命じる。
5月24日バークスが、長崎への途次下関に
寄港し、長州藩士と接触する。
幕府「第二次長州征討開始」
幕府は倒幕の動きを強める長州藩に再度朝
廷から征長の勅許を得、6月に諸藩の兵を
動員し、芸州口石州(せきしゅう)口、小
倉口、大島口の四方から長州に攻め入り、
幕府は第二次長州征伐を宣言すると、長州
側で「四境戦争」と呼んだ。
幕府軍が四方から攻めた四方戦争(第二次長州征伐)
迎え撃つ長州藩。
大島口
6月7日幕府の軍艦が、長州藩領の周防国
大島を砲撃後上陸すると、海軍総督に任
じられた晋作は購入したばかりの丙寅丸
に乗り込み、幕府の戦艦4隻に夜襲をか
け、同時に騎兵隊を上陸させ、大島を奪
還する。
四境戦争図「大島ぐんの図会」(大島口の戦いを描いた瓦版)
大島口の戦いで、幕府軍・松島藩兵による
島民への略奪・暴行は世論の批判を浴び、
戦後松山藩の使者が同島を訪れ、藩主の名
をもって謝罪する。
小倉口
総督・小笠原が指揮する九州諸藩と高杉・
山県有朋ら率いる長州藩の戦闘が、関門海
峡を挟み戦闘。
6月17日長州藩艦隊は、豊前国小倉沖へ進
み、高杉晋作らが丙寅丸、癸亥丸、丙辰丸
で田野浦を亀山社中らが乙丑丸、庚申丸で
門司を砲撃し幕府軍を敗走させる。
芸州口
芸州口では長州藩・岩国藩により彦根藩・
高田藩が壊滅、幕府歩兵隊・紀州藩兵が両
藩にかわり長州藩と戦闘し、膠着状態にな
る。
石州口
長州藩参謀・大村益次郎(43)が指揮し、
中間立場の津和野藩を通過し、一橋慶喜の
実弟藩主・松平武聰の石見の浜田藩領へ進
撃し、7月18日長州は浜田城と石見銀山を
制圧する。
大村は洋式軍政をしき、兵士に最新の銃器
を装備させ、一貫して民心に気を配り、幕
府軍の砲撃で民家が火災にあうと、「戦は
天下のためだから、良民を苦しませてはな
らない」と兵を消化にあたらせたという。
幕府の拠点・浜田城をせめたき、近隣住民
が敗走する紀州藩兵を竹槍をもって追撃する。
小倉口と幕府(休戦協定)
6月17日に始まり7月3日・27日と三度に
渡った小倉口での戦いは7月20日に14代将
軍・家茂(21)が、大坂城中で病死、長州
側の勝利を目前にしていた。
7月22日禁裏守衛総督・一橋慶喜(30)が
急遽大坂に
下り、7月27日慶喜が幕政改革を条件に徳川
宗家を相続を承諾、将軍就任については保留。
長州軍に攻撃を受けた小倉城が落城し幕府軍
が敗走する。(8月1日)
幕府は家茂の死去と慶喜のと奥川宗家相続を
発表(8月20日)し、翌日征長休戦の勅令が
下り、同年慶応2(1866)年8月21日長州と
幕府は休戦協定を結ぶ。
九州小倉合戦図(下関市立長府博物館所蔵)
この間、薩摩藩。バークスが鹿児島湾に
6月17日に入り、薩摩藩主忠義・久光親
子と会見し、7月9日忠義、久光父子が、
長州再征に反対する。
薩長密約後。幕府は長州征伐の石州口は
じめいずれの戦いでも長州軍に圧倒され、
将軍家茂が没したことを名目に長州征討
をうちきる。
2021.5.16
幕末の長州藩ー大村益次郎(「適塾」)ー新大阪物語(1000)