光明寺和尚の岸和田から

大坂の二泊三日の旅の竹杖日記。

和尚(皮也)と商人(清丸)は

堀江の宿(和泉屋)から心斎橋

・道頓堀に向かう。

 

『竹杖日記』

文化11(1814)年3月9日

心斎橋へ出て安堂寺町の「丸朝」

という袋物屋へ行く。

鉄格子波丸と並んで有名な狂歌人

の雌雄軒芦原蟹丸の庵はこの付近

であるが、このたびは暇なく訪問

しなかった。

 

「下村」という呉服屋や小倉鬢附

(びんづけ)で有名な小倉屋に立

ち寄り、それから戎橋を渡って道

頓堀で羽二重餅を買う。

これはとても値段が高かった。

羽二重の 名におふもちも 大名の

めさるる物と あたひ(値)にぞしる  皮也

 

ここの奈良茶屋で飯を食う。

この二、三日どこでも飯に(ふ)を

付けて出すのに閉口していたのに

、ここでも菓子椀に麩を盛って出し

た。

清丸は顔をしがめてこんな狂歌

をよんだ。

又もふを つけられあたま  かくばかり

なんとしやうぎの こまり入ㇼ王    清丸

 

陳阿「竹杖日記」(狂歌)

陳阿(調音美)と石川雅望(宿屋飯盛)

「竹杖日記」の跋(あとがき)は

石川雅望による。

石川雅望(1753-1830)は江戸(

小松伝馬町)の旅籠屋の商人で父は

浮世絵師石川豊信。石川雅望は当時

流行した江戸風の狂(たわ)れ歌、

狂歌では「宿屋飯盛」と名乗り、

六樹園と号して五側という一大勢

力の首領となり、国学者と

しても名を残す。

 

石川雅望と蔦屋重三郎・喜多川歌麿

「絵入り狂歌本」

寛政期に石川雅望(宿屋飯盛撰)、

蔦屋重三(版元)、喜多川歌麿(摺

絵)の3人はコンビで「絵入り狂歌

本」の「画本虫撰」(天明8年・17

88年)、「龢謌夷(わかえびす)」

(寛政1年・1799年)、「画本千

鳥狂歌合」(寛政2年)、「銀世界」

(寛政2年)を出版する。

画本千鳥狂歌合(鶏と頬白)

彩色摺絵(喜多川歌麿)、版元(

蔦屋重三)。

複雑な二羽の鶏の絵。

一匹が右、他方は足とからだが右

向きで顔は、左を向いている。

2匹の鶏の交尾する姿を描く。

 

 

宿屋飯盛(石川雅望)撰「画本千鳥狂歌合」(「鶏と頬白」)

 

(鶏)

かけ香の丁子の口はとづれとも

まかせぬけさの鶏の舌  宿屋飯盛

(頬白)

色ふくむ 君がえくぼの ほう白に

さしよる恋の とりもちかな  芦辺田鶴丸

 

宿屋飯盛は、香りのよい丁子の花、

匂い袋、そして今朝の鶏の舌とをか

けて詠む。

 

寛政の改革と「絵入り狂歌本」

絵入り狂歌本は石川雅望の狂

歌撰、歌麿の彩色摺の絵は蔦

屋重三郎版元により時代に咲

いた華であった。

ところで、寛政3(1791)年

石川雅望は江戸払いとなるも寛

政末に狂歌壇に復帰する。

歌麿は文化2年(1805)年「

太閤五妻洛東観之図」で蔦屋重

三郎は重科料に処せられ、歌麿

は50日の手鎖の刑で翌年死亡。

竹杖日記(道頓堀)

有名な狂歌人という鉄格子波丸

こと木津屋周蔵。

木津屋周蔵(ー1811)は大坂

立売堀の鉄問屋の商人。

陳阿和尚が宿とした「和泉屋」

すぐちかくに遊郭がある。

賑わう商人の町で鉄格子波丸は

「鉄格子社」という一門をたて

る。

このあと和尚と狂歌で(麩)に

(歩)を掛け、「なんとしやう」

と「将棋」に懸けた清丸の二人

旅は、傘屋の多い長町(堺筋)

へ出て今宮の町に向かう。

 

 

 

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