岸和田城の前、紀州街道沿いの光明寺。

光明寺の陳阿和尚の旅日記。

死後、読みなおしても面白いと思える

二泊三日の旅日記を記す。

 

<陳阿和尚「竹杖日記」>

光明寺(現岸和田市本町)の住職陳阿は、

文化11(1814)年春3月、友人の坂田屋を

連れだって浪華(大坂)見物をし、その往復の

を「竹杖日記」に記す。当時狂歌では調音美の

名で知られた陳阿は下手な「皮也」と名乗る。

旅の連れは坂田屋(五軒家町田葉粉屋)の宇野

安兵衛泰雲で、狂歌をたしなみ「清丸」と号した。

日記は老年になって退屈したときこれを見、腹を

よじってひとりで楽しむために、狂歌百余首をおさめる。

3月7日皮也(和尚)は清丸(坂田屋)を誘い岸和田を

旅立つ。

 

 

岸和田光明寺の陳阿和尚(皮也)と坂田屋(清丸)

 

二泊三日の岸和田から大坂の旅は、途中寺社に寄るが、

旅のおめあては道頓堀の芝居見物であった。

3月7日堀江の和泉屋に着く。主人は「后丸(きみまる)」

を名乗る狂歌人でもあり、清丸は狂歌で挨拶する。

翌朝3月8日。朝食を早くすませ道頓堀の角の芝居見物に

出かける。

 

 

「摂津名所図会」の道頓堀芝居小屋二社

 

日記に記す芝居見物。

「こたみのわざをぎは『朝顔冊子』とかいふものを

あやつれるよしにて『傾城つくしのつま琴』となんぶ

めり」と芝居の役者(嵐吉三郎と荒尾村吉)の様子を記し、

弁舌さわやかなること、めさむるここちす。感ずる余り、

かくないんいひき

大井川 ながるるごとき 弁舌に

    あたらあらしの 山をなす人     皮也

帆まちせし 人ぞ入り江の 大湊

    あらしあらしと ほむること葉に   清丸

沢村田之介は女がたの上くら(上座)也。かほかたちの

うるはしきのみかは。いとたけ(管弦)のわざもすぐれた

りとて、みな人めであへり。皮也

又見むと みなかたちかへり紀の国や

 わか女がたの 玉つしま山

紀の国屋は田之介の家名なりとかや。

かく我にもあらずうかるほど、かたへなるはな紙袋を

掏摸(スリ)のとりてゆきぬ。后丸(和泉屋)ききつけて、

何くれとまめやかにいろひて心ぐるしがるを、皮也、

おとししと いひまぎらして 小つづみの

  うつつけの名をな人にもらしそ

陳阿和尚は芝居にうつつを抜かしている隙にスリに

盗まれる。それほど感動した晩は夜中の時を知らせる

鼓が鳴るまで芝居の話をし合った。

 

 

いづみや(「摂津名所図会」寛政10年・1798年)

 

3月9日は心斎橋へ出て安堂町の「丸朝」という

袋物屋へ行き、戎橋を渡り道頓堀にゆき…とつづく。

 

「竹杖日記」

<3月7日(往路)>

岸和田(出立)野村春木ー磯の上忠岡大津助松

小高石高石今在家ー浜寺石津

安立町住吉阿倍野天王寺庚申堂ー伽藍ー

ー太子堂ー清水寺ー谷町筋ー北向八幡宮ー生玉明神

ー高津宮和泉屋(2泊)

<3月8日)>

和泉屋ー芝居見物(角座)ー和泉屋

<3月9日(帰路)>

和泉屋ー心斎橋ー道頓堀ー長町―天下茶屋ー

住吉新家・安立町・堺ー湊・今在家・石津・浜寺・

今在家ー高石・忠岡ー春木ー光明寺       

住吉新家より、往路の紀州街道にはいる。

安立町を通り、大和橋を渡り、堺を経て

岸和田光明寺に夕刻戻る。

 

 

光明寺(岸和田市本町15-25)

 

2020.8.31

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