令和3(2021)年正月。

ひとつの国がかわるとき、国内で戦乱が

続き、日本も戊辰の正月より戦争が起こ

る。(戊辰戦争)

 

王政復古と戊辰戦争

慶応3(1867)年12月8日。

朝廷会議で長州藩主父子の全面復権と

岩倉具視、三条実美ら公家政治犯の全

員赦免が決定される。

翌12月9日、岩倉具視は隠棲以後5年

ぶりに参内。

幼帝(16歳)の前に出、内府徳川慶喜

の大政奉還はまやかしで己の権力を温

存しようとするもので、我らの願いは

帝の親政、王政復古ですと奏上する。

 

鳥羽伏見の戦い

王政復古の大号令を発し、新政府は

徳川家の官位と領地を没収すると宣

言。

これに憤慨した旧幕府軍、江戸で挑

発行為を重ねる薩摩藩。

旧幕府は、薩摩藩の横暴を弾劾すべく、

「倒薩の表」をしたため、会津・桑名

両藩の兵1万5千の大軍が大坂より京

向かう。陸路、船でさかのぼる部隊

が伏見に上陸後、伏見奉行所や本願寺

別院に入る(正月2日)。

これに対し、朝廷では、薩摩・長州・

土佐諸藩の兵をくりだし、鳥羽では、

城南宮から小枝橋に至る参道に陣をか

まえる。

 

 

城南宮(京都市伏見区中島鳥羽離宮町7)

 

新政府軍、伏見では御香宮神社付近に

陣を構える。

 

 

薩摩軍が陣を構えた御香宮神社(京都市伏見区)

 

新政府軍は、鳥羽街道口に桐野利秋率

いる薩摩藩兵、伏見街道口に長州藩兵

が布陣し、旧幕府軍を迎え撃つ態勢を

とる。

1月3日鳥羽街道を北上の薩摩軍600

が城南宮付近で幕府軍の入京を阻止

するために長時間対峙する。

午後4時過ぎ、薩摩藩の大砲が火を噴

て戦いが始まる。

正月4日、下鳥羽から伏見にかけて戦

がつづく。

5日、仁和寺宮嘉彰が新たに征夷大将

軍に任命され、錦の御旗を奉じ御所を

出陣し、薩摩の本営東寺にはいり、

羽街道を南に進軍、官軍となった薩長

軍の士気高まり、朝敵となり戦意を失

った旧幕軍を淀から八幡へ退却させ、

新政府軍の勝利を決定的にした。

 

 

 

鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争)の始まりの城南宮参道

 

岩倉具視と西郷隆盛・大久保利通

岩倉具視は、王政復古のときまで、蟄居

(1852-1867)のため実相院で滞在し

ていたで岩倉具視は、西郷隆盛、大久保

利通とともに倒幕の密談をしたという。

 

 

 

岩倉具視隠棲旧宅近くの実相院(京都市左京区上蔵町121)

 

 

薩摩藩京都屯所

戊辰戦争のとき、薩摩藩の屯所となる

退宗院。

西郷隆盛が月照と倒幕の密議を重ねた

地で、新政府軍の総帥・西郷は、戦死

した島津藩士524名の霊を供養するた

めに、即宗院に半年、建碑の工事を

督し、自らが筆をとりて撰文する。

 

 

西郷隆盛「東征戦亡の碑」の即宗院(京都市東山区本町15丁目)

 

長州藩京都屯所

東福寺の参道沿いの退耕庵は、戊辰

戦争での殉難者のための菩提所となる。

 

 

戊辰役殉難士菩提所の退耕庵(京都市東山区)

 

また、東福寺東側の山上仲恭天皇九条

陵の西隣に鳥羽伏見戦で戦死した戦没

者招魂場がある。

招魂場には、防長藩士崇忠碑、記念植

樹碑などがある。

 

 

鳥羽伏見戦の長州藩戦没者招魂場

 

慶喜は、6日に大坂城を脱出し、江戸

に向かう。

長州軍は、新選組の宿舎大阪天満宮

(1月14日・15日)占拠し、これ

を陣屋とし、また薩摩軍は南御堂を

薩州屯所とした。

戊辰戦争(1868ー1869)は白河上

皇が造営した鳥羽離宮(城南宮)の

参道ではじまり翌年明治2(1859)

年5月にわたる日本の内戦で、名称

は慶応4年・明治元年の干支が戊辰

に由来する。

 

 

 

 

 

2021.1.3

新年「初夢(麒麟と鬼神)」<麒麟がくる」39回>