正月2日。時代は密談に移る。

出町柳より鴨川の北西の霊源寺(西賀

茂)と比叡山麓(洛北)の岩倉にゆく。

この地は、かつて岩倉具視の隠棲地。

 

 

賀茂川(左・西)と高野川が合流し鴨川となる地の出町柳

 

岩倉具視

具視は、京都の下級公家(堀川康親)の

第2子で、13歳のとき、岩倉家(家領15

0石)の養子になる。

岩倉は、少年期から公家風とはほど遠い

言動で、庶民の名である「岩吉」とあだ

名されれていた。

 

岩倉具視と孝明天皇

弘化3(1846)年孝明天皇が即位、

問好きで、極端な外国人嫌いであった

天皇。

幕府が鎖国を厳守さえすれば、幕府に

政治を任せるという公武合体策を支持

する。

ペリーが浦賀に来航し、日米和親条約

が調印された同年安政元年に、天皇は、

任官希望者のリストから、岩倉の名前

に爪印をつけて、従に指名し、以後岩

倉(30歳)は孝明天皇をかついで、朝

廷が主導してゆく体制を目指す。

 

岩倉具視と「神州万歳堅策」

安政5(1858)年1月、日米通商条

約の調印を得るために老中堀田正睦が

上京。

関白九条直忠は勅許を与えるべきと主

張し、岩倉具視は公卿88人を結集させ

抗議する(3月12日、八十八卿列参事

件)。

天皇は堀田老中に「後患が測りがたい

」と勅許を与えず、下級廷臣らが朝廷

の関白の決定を覆す異例の事態で、こ

のときに岩倉は朝廷の実力者の地位を

手にする。

2日後、岩倉は「神州万歳堅策」を天

皇に提出。

開港や宗教行為の許可を理由に条約不

承認とするが、将来的には条約を結ぶ

可能性もあり、まずは相手国に使節を

派遣し調査の必要があり、条約の調印

を引き延ばし軍備の充実に努めるべし

と主張する。(安政5年3月)

 

安政の大獄と岩倉具視

同年安政5年6月19日、大老井伊直弼

が独断で日米修好通商条約を締結。

老中奉書で知った孝明天皇は激怒。

井伊は続いてオランダ、ロシア、イギ

リスと不平等条約を締結し、抗議した

徳川斉昭(前水戸藩主)や松平康永(

福井藩主)らを謹慎処分にする。

これに孝明天皇は、水戸藩に対して井

伊を糾弾するように勅令を下す。

このため幕府は尊王攘夷派や一橋派

に対する大弾圧(安政の大獄)を発

動する。

岩倉は大獄が皇室・公家まで広がり、

朝廷と幕府の関係が悪化を危惧し、京

都所司代・酒井忠義や伏見奉行・内藤

正縄などと会談。

 

岩倉具視と和宮降嫁

安政7(1860)年3月桜田門外の変で

井伊直弼が暗殺され、幕府は失墜した

権威回復のため、朝廷との融和を図る

公武合体が不可欠と、孝明天皇の妹、

和宮の将軍・家茂への降を、天皇に正式

に願い出る。

天皇は和宮が有栖川宮熾仁親王とすで

に婚約しており反対していた。

ところが、岩倉は実現させることが、朝

廷にとって得策で公武合体策に乗るよう

にみせ、その実は幕府に朝廷の裁可を得

る王政復古を政権構想を描き。

和宮の条件として、10年内に外国との通

商条約を撤回するか、武力による攘夷を

断行するか、実行不可能なことを幕府に

約束させる。

文久元(1861)年10月、和宮は桂御所

を出、岩倉が勅使として随行し江戸へ下

向。

12月14日岩倉は江戸を発ち、京へ戻る

(12月24日)。

 

岩倉具視と蟄居

尊攘派は和宮降嫁に激怒し、長州藩で

は藩論を攘夷と定め、京都では天誅と

称し暗殺事件が頻発する。

朝廷内でも、尊攘派の公家が台頭し、

岩倉は、幕府と結託する公武合体派

して非難されたため、官職を辞し出家

し蟄居生活にはいる。

 

岩倉具視と霊源寺

朝廷の官職を辞した岩倉具視(文久

2年)。

出家することを願い出、霊源寺にゆ

き、剃髪し、蟄居生活をはじめる。

霊源寺は、後水尾上皇が、仏頂国師

に開山を講じて創建された寺で、

涼山と号し、臨済宗に属する。開山

仏頂国師が岩倉家出身であったこ

とから、具視は、霊源寺で出家隠棲

する。境内には具視の歯芽塚がある。

 

 

霊源皇寺(京都市北区西賀茂北今原町41)

 

岩倉具視の幽悽地岩倉村

同年文久2年、さらに洛中からの追放令

が下り岩倉村に移る。

京都御所の北東、比叡山麓の岩倉村。

幕末には洛外と呼ばれた地で、実相院

から10mに岩倉具視幽棲旧宅がある。

具視の屋敷地は実相寺の寺領にあった。

 

 

         王政復古密談の地の実相寺(左 岩倉公幽棲地)

 

蟄居を命じられ岩倉具視は約5年、

岩倉村の地で暮らす。

 

 

岩倉具視の幽棲旧宅(京都市左京区岩倉上蔵町100)

 

岩倉村の地で暮らした岩倉具視。

追放後の具視の生活は厳しく、里

子に出した娘への仕送りもとどこ

おるほど、困窮していたときがあ

った。

 

 

岩倉具視屋敷の炊事場

 

 

岩倉具視「叢裡鳴虫」と大久保利通

岩倉の蟄居後、禁門の変が起こる(元治

元年・1864)。

京から過激派が一掃され、公武の一体化

が再び論じられる。

岩倉村を訪ねてくる人々が出だす。来訪

者から情報を集め、具視は「叢裡鳴虫」

の論文を執筆する。これは、朝廷権力の

確立を目標とし、朝廷と幕府が大綱をつ

くり、のちに諸藩の大名を京に招集し、

会議で意見を出させ、天皇が最終決定を

行う体制を論じる。

岩倉は「国家の柱石たらんことを望む」

と、薩摩藩を起用し、幕府や諸藩を統制

しようと主張する。

王政復古のひとつの布石で大久保利通に

示し意見をもとめる

 

隠棲の地で、岩倉具視は大工藤吉の居宅

を購入。(元治元・1864年)

のち増築して慶応3年(1867)まで住居

とする。

岩倉具視は実相寺で、倒幕に向けて西郷

隆盛、大久保利通と密談する。

岩倉村で約5年暮らした岩倉具視。

 

 

 

2021.1.1

新年(「密議」)ー新京都物語(248)