堺から大和橋を渡り、紀州街道沿いの

安立町にはいる。

大和川南詰の御手洗橋を下ると、安立

町商店街に通じる。

この商店街手前には阿弥陀寺がある。

 

紀州街道と阿弥陀寺

阿弥陀寺前に紀州街道の説明板があ

る。

江戸時代に整備された街道は、高麗

橋東詰から堺筋を南に下り、天下茶

屋、住吉大社、安立町を通り堺に入

る。

のち大阪湾に沿って和歌山に至る。

かつて参勤交代の大名や商人たちで

賑わい、住之江のあたりはすぐそば

まで霰(あられ)松原と呼ばれた白

砂青松の景勝地があったという。

 

 

 

阿弥陀寺(大阪市住之江区安立町、浄土宗知恩院派)

 

 

阿弥陀寺(安立寺町)

山号が正音山で、阿弥陀寺境内には

歌碑があり、門前の案内板に「浅野

長政公縁之寺」とある。

境内には十三まいりの石碑と地蔵堂

がある。

(歌碑)

境内には大きな石の歌碑がある。

住の江の 岸による波 よるさへや

 夢のかよひず 人目よくらむ

 

藤原敏行(平安前期、三十六歌仙

のひとり)の歌で、歌碑のきわに

ハマグリの石細工が置かれている。

恋の心を詠んでいる歌にハマグリ

を置いており、直木賞作家の寺内

大吉書とある。

 

 

歌碑(藤原敏行、寺内大吉書)  

 

 

地蔵像の阿弥陀と「地獄」

 

豊臣五奉行浅野長政公縁之寺

安立町阿弥陀寺は、浄土宗知恩院

派で、寺紋が浅野家の家紋「丸に

鷹の羽」。

浅野長政と阿弥陀寺と関係は仔細

不明。

浅野長政(1547-1611)は、ね

ね(北政所)の浅野家の養子となり

、浅井長政攻めで活躍。

信長死後は秀吉に仕え、豊臣政権

を支え、賤ヶ岳の戦いで戦功をあ

げる。

近江国2万石領主となった浅野長

政は豊臣政権五奉行として、太閤

検地を実施する。

秀吉死後、関ヶ原の戦いで家康を

支持し、長政の嫡男・浅野幸永が、

この戦いの功績で紀伊国和歌山へ

37万石加増転封、紀州藩主となる。

 

阿弥陀寺の本山知恩院(京都市東

山区)。

知恩院は豊臣・徳川家と縁がある。

浅井長政の死後、妻のお市は柴田

勝家と再婚、賤ヶ岳の戦いで浅野

長政の活躍で、お市は柴田勝家と

自害する。浅

井長政とお市(織田信長の姪)に

は、三人の美人姉妹がいた。

のち淀殿(秀吉の側室)、初(京

極隆正正室)、江(ごう、2代将

軍徳川秀忠正室)と呼ばれる。

このとき三人姉妹は秀吉の保護を

受けることになる。

徳川家により再建された知恩院。

知恩院には、江の墓、千姫の墓が

あり、豊臣家、徳川家に仕えた浅

野長政が安立町阿弥陀寺とどう関

係したかは不明。

 

地蔵堂

地蔵堂の地蔵さんは赤色で、地蔵

堂の奥にある絵に目がゆく。

 

 

左側に阿弥陀寺がある。

阿弥陀さまが雲に乗り、その下に

鬼がおり、さらに童が鬼に追いか

けられ逃げている。

 

 

一方提灯のそばで2人が遊ぶのを見る

女性がおり、その周りに多くの骸骨が

楽しげに踊っている。

 

一休和尚と地獄太夫

不思議な絵で、絵の女性を地獄太夫と

かけているのだろうか。

和泉名所図会にある一休和尚と地獄太

夫。

 

 

和泉名所図会(寛政8年・1796年発行・秋里籬島著、竹原信繁画)

 

和泉名所図会によると、一休和尚は

堺の高須にて、遊女地獄というをよ

んであそび戯れ、酒興のうえにて、

三乗四諦無非道とうたい給えば、万

法千門只此心と句を継いで、共にう

たいたわむれける。

と、記されている。

堺と安立町が陸続きの室町時代、い

まの高須神社付近に地獄太夫がいた。

幼い頃に山賊に捕らえられ、あまり

に美しく、堺の高須に遊女に売られ

る。

 

 

                地獄太夫(橘小夢絵)

 

その女性は、現世の不幸は、前世

の行いがよくないためと、自らを

地獄と名乗り、地獄の図を描いた

着物を身に付け、風流の歌を最期

に詠む。

我死なば 焼くな埋むな 野に捨てて

  飢えたる犬の 腹をこやせよ。

 

と、辞世の句を残す。

 

 

安立町阿弥陀寺の案内板の掲示物に、

「Help! Thank! Carlo Chui Chbani

結・和 STAY HOME 悪疫退散 

にっこりわらって」とある。

コロナ禍にくわえ35度を越える猛暑

日がつづく大阪、紀州街道の安立町

をゆく。

 

 

 

 

 

2020.8.12

紀州街道(大和橋と住吉大社)ー新大阪物語(843)