川の付け替えによりできた新大和川。
堺と大阪を分断した新大和川がやがて大和川と
呼ぶようになる。この川に架けられた大和橋には、
今に至るながい歴史がある。
西(大阪湾側)に湾岸線、南海本線が見える大和橋
<紀州街道の大和橋>
紀州と大阪を結び、住吉大社に通じる紀州街道。
古くより参詣客や旅人が往来した堺と大阪間は陸続きであった。
幕府は、元禄16(1703)年に河内国で北に向かう川筋を、
氾濫による被害を守るために、北から西へ真っ直ぐに付け替えた。
堺と大坂が陸続きの西海海路図屏風(1668年頃作成)
大和橋南詰に「大和橋之碑」(1999.3大阪市)がある。
大和橋は大和川開削と共に宝永元(1704)年に、
紀州街道が川を渡るところに架けられる。幕府が管理する
公儀橋で、当時大和川に架かる橋は、この橋しかなかった。
(大和橋と住吉大社)
紀州街道は住吉大社への参詣道で、古くから住吉道とも呼ばれる。
住吉大社の夏の大祓いの祭では、神遷した神輿をかつぎ、
数百人が持つかがり火が兵庫はじめ泉州海岸まで見え、
この神事を拝したそうだ。
大和川の大和橋を渡る住吉大祓神輿(江戸時代)
(明治の頃の大和橋ー与謝野晶子ー)
明治維新後の大和橋。
幕末に補修ができず、明治2(1869)年に補修されるが、
抜本的な解決にならず、大阪府と堺県が、国(大蔵省)に陳情し、
明治6(1873)年に架け換え工事が実施される。
堺出身の与謝野晶子(1878-1942)は明治の頃の
大和橋を、幼少の頃にさかのぼり綴っている。
綴摂津の国は、昔は地続きだったが、新大和川で隔たり、
大和橋がそれに架かる唯一の橋であったと記し、
「水に流されて仮橋になったのが二度程ありました。
河原の蘆や月見草は橋よりずっと高く伸びて、両側から小さい
私の髪にさわる程でした」と、当時の木製の大和橋を記す。
また、住吉祭について「だんだん街のさわぎは高くなって
いきます」にはじまり、祭礼を見るのは夜の10時頃で、
海のように灯の点った町を通る、お稚児さん、馬上の夜に
映る姿に幼いゆえに不安が募った頃の思い出を記す。(「堺の市街」大正4年発行)
大阪の夏祭りを締めくくる住吉祭。
本年はコロナ禍により感染防止のため、夏祭り(3日間)は
夏越祓神事(7月31日)などすべて中止となる。
(大和川に架かる大和橋)
明治の頃、洪水のときには、いつも流水の危険にさらされ、
大阪府は、大正5(1916)年に鉄橋に架け換えた。
その後、昭和14年、昭和34年に大規模な補修をし、
昭和49(1974)年に、現在の橋に架け換えられる。
大阪市立安立小学校前にある「大和橋親親柱之碑」(左手前)
このときに大和橋の旧親柱のふたつ(「やまとばし」「大和橋」)が
安立小学校前に「大和橋親柱之碑」として置かれている。
2020.811