日本を二分した関ヶ原の合戦。

勝利した家康が江戸を拠点とする

幕府を開く。

265年間の幕藩体制の幕あけとな

る。

 

関ヶ原の戦い後の大名配置

関ヶ原の戦い(慶長5年・1600年

)後。

家康が断行した大名配置替え。

新大名が68を数え、多数新設した

譜代大名。

豊臣恩顧の大名で東軍に参戦した

大名には、その功により加増をす

るが、江戸から遠い地に配置する

外様大名。

財政基盤を強化するために増やす

蔵入領(天領)。

紆余曲折の末、本領安堵された島

津忠恒が家康に謁し、兵は出さぬ

が豊臣氏と親しく、徳川牽制の役

をした佐竹義宣を大幅減封移封し

て関ヶ原の戦後処理をほぼ終える

(慶長7年)。

 

 

征夷大将軍と江戸幕府

戦後処理が終わった翌年慶長8(

1603)年。

家康は諸大名を支配するも、名目

上豊臣家の筆頭家老で、この主従

関係をくつがえすには、征夷大将

軍になるしかないと考える。

征夷大将軍は、もとは蝦夷を征

伐する職で、源氏が平家を滅ぼし、

武門の最高権力者の職名である。

この職を得るには、三つの条件、

諸大名を統制する実力があり、

源氏の系統で、朝廷から官位を

もらっていることが必要であった。

 

家康と家系図改ざん

家康が征夷大将軍に任じられるた

めに、二

度家系図を改ざんする。

青年の頃、官位獲得のために関白・

近衛前久と神祇官・吉田兼右の力を

借り、家系図を新たにつくり、源氏

の一員になる。

 

二度目が関ヶ原の勝利後。

将軍になるには、源氏の嫡流でなく

てはならず、足利一族の吉良氏から

系図を譲り受ける。

のち家康は朝廷工作を重ね、慶長3

年2月12日に朝廷から征夷大将軍に

任じられる。

よって鎌倉・室町幕府の伝統を継ぎ

、全国の支配者たることが公式に認

められ、この日をもって豊臣と徳川

の主従関係が逆転し、江戸幕府が発

足することになる。

 

徳川家康と伏見城

家康が、松平からはじめて徳川姓を

用いたのが永禄9(1566)年、

以後徳川宗家と御三家(尾張徳川家

・紀伊徳川家・水戸徳

川家)、御三郷のみ、徳川姓を名乗

り、他の庶家は松平姓を名乗る。

 

慶長5年6月、伏見城より会津攻め。

同年7月石田三成が伏見城攻め。

関ヶ原合戦後、慶長6年伏見城再建、

翌年家康が伏見城に帰城する。

慶長8年、伏見城にて家康が征夷大

将軍宣下を受け、江戸に幕府を開く。

 

家康の孫・千姫と徳川秀忠・小督

同年慶長8年7月、家康の孫、秀忠

の娘・千姫が伏見城から大坂城の豊

臣秀頼に嫁ぐ。

 

 

伏見城(京都市伏見区大蔵)

 

千姫は京都・伏見城内の徳川屋敷

で誕生。

秀忠(のちの二代将軍)17歳と

小督(おごう)25歳が結婚。

ふたりの子・千姫が誕生する。

 

千姫7歳のとき、伏見城御舟入り

から乗船し大坂城にはいる。

秀忠の妻・小督は、お市(織田信

長の妹)の娘で、小督は、ふたり

の姉、茶々(秀吉の側室)とお初

(京極高次の正室)がおり、竹千

代(三代将軍家光)はじめ7人の

子宝に恵まれる。

 

 

   家康伏見屋敷で誕生した義直・頼房・頼宣を産土神とする御香宮神社

   (1615年に大亀谷から現在地に移す。京都市伏見区御香宮門前町)

 

 

江戸幕府を開いた家康(61歳)。

以後、家臣を適材適所に配置し、長期に

わたり政権を維持する仕組みを制度化し

てゆく。

 

 

 

2020.5.22

関ヶ原の激戦ー東軍(家康)と西軍(三成)ー新岐阜物語(6)