大阪の「奇才・奇人」。

植物採集で知られた南方熊楠は、宮武外骨の

誌、新聞に投稿、ふたりは、時代の「奇才・奇

人」と呼ばれる。

 

南方熊楠(1867-1941)

南方熊楠(みなかた くまぐす)。

慶應3(1867)年、和歌山市橋丁で生まれ、

少の頃から本好きで、記憶力に優れていた。

東京大学予備門を退学後、アメリカで5年(

1886-1891)、イギリスで7年(1892-18

99)、キノコなどの生物採集をし、大英博物

館で、東西の文献を研究する。

帰国後那智・田辺(現西牟婁郡田辺市)に定

(1900-1908)、膨大な書物と植物採

集、標本に埋もれ、生涯、関連する博物学、

民俗学、人類学などあらゆる現象を記録し、

宇宙万有の謎を解くことにつとめる。

 

「此花」(宮武外骨)と南方熊楠

宮武外骨(1867-1955)は、熊楠と同じ慶

応3年生まれ。外骨は筆禍事件で禁固刑を受

けるが、大阪風刺効く「滑稽新聞」で批判

活動を続ける。

廃刊後、外骨は浮世絵の専門誌「此花」を

刊(明治43年)し、この雑誌に南方熊楠は

風俗に関する随筆「婦女を○童に代用せしこ

と」を投稿する(明治45年)。

熊楠は、タブー視される性の話題について、

宮武に書簡を送る。

「小生事も在外15年の間常に欧米の諸博物館

にて浮世絵を扱い、また大英博物館にて淫画学

および男女に関する裁判医学を専攻致したるこ

と有之、『此花』創刊の節より、毎々投書御採

録願わんと存じ立ち候…」(1912.5.27)。

「此花」は、この年に廃刊となる。

 

南方熊楠と宮武外骨

廃刊、創刊をくりかえす宮武外骨。

ときは大正2(1913)年。「此花」が廃

刊となり、「日刊不二新聞」、「月刊不二」

を創刊する。

 

 

             「月刊不二」(大正2年10月ー3年3月・10号)

 

熊楠は、これらに投稿する。他の雑誌類では、

性風俗をとりあげてもらえない時勢であった。

一方、外骨は「月刊不二」で、「南方熊楠先生

逸話」で、熊楠の経歴、人となり、博覧強ぶり

や、奇行の数々を紹介する。

これに熊楠は社長の日野国明に『すこぶる面白

からず』と書簡を送る。日野は外骨の親友であ

り、熊楠の神社合祀問題の弁護士でもあった。

 

前後して、「日刊不二新聞」(11月6日号)掲

載の「情事を好く植物(上)」と「月刊不二」

(4号11月)掲載の「月下氷人(むすぶのかみ)」

が風俗懐乱罪で告発される。

 

「月下氷人」(南方熊楠)

系図粉乱の話。種々親族姦を佛が戒めた事、

因縁は切ても切れず自分が殺した女と副(そ

え)遂げた事

 

翌大正3(1914)年2月、熊楠不在のまま、

筆者100円の罰金、両「不二」の編集人、発

行人に罰金50円を科す判決がでる。ふたつの

「不二」は翌3月までで終刊となる。これを契

機に、ふたりの奇人の仲は疎遠になる。

 

日刊不二新聞は、「副食新聞たらん事を目的

として起きてる新聞なり」

日刊不二新聞社(社長日野国明、主筆佐々木

照山、社主宮武外骨)

 

 

 

不二新聞社は、小林一三のの協力を得て、

現在の阪急百貨店、阪急梅田駅(現大阪

梅田駅に改名)のあたりで創業。

閉社後、宮武外骨は、大阪の聖天山南に

居を移し(大正3年4月)、翌大正4年夏

に東京にゆく。大阪で16年活動する。

 

 

 

2019.9.25

小林一三(小説「練絲痕」)と宮武外骨ー新大阪物語(676)

2019.10.3

宮武外骨「滑稽新聞」と竹久夢二ー新大阪物語(684)