「役に立つ」だけでは、もう通用しないのでは? | トラベルライター・歴史研究家・英語/ドイツ語トレーナー 山内一輝のブログ

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トラベルライターとして、歴史・旅行に関する執筆・講演活動をしている山内一輝(山内かずてる)のブログ。個人事業主向けにプロフィール・個人活動冊子の文章作成も手掛けています。英語・ドイツ語を教えていた経験あり。国内外問わず、城や古い街並みを巡るのが好き。

昔語りを少々。

ワタシの父、子ども時代に困窮していたからなのか、
「役に立つのか?」「金になるのか?」というのが、判断基準だった。

だから、「役に立たないこと」というのは、唾棄すべきものだと考えている節があった。

しかも、父は我慢した働いているものだから、
どうも「楽しそう」にしているワタシらを、どこか快く思っていない節があった。


だから、何かに熱中して遊んでいると、色々鬱陶しいことを言われたものだった。

しかも、インドアな遊び…例えば、ボードゲームとかが好きだったのもあって、
余計に目をつけられていたのかも知れない。

運動のできなかったワタシにとって、子どもの頃に、外に行く楽しさなんて、ちっともなかった。
はっきり言って、行きたくなかった。


氣が付いたら、ワタシも「役に立つこと」しか追い求めなくなっていた。
そして、感情を出さなくなっていた。


そこにあったはずの「楽しさ」だとか、「面白さ」だとか…
あるいは、理不尽さに対する「怒り」「悲しみ」も…


でも、「役に立つ」だけで生きていたって、面白くも何ともない。

ワタシが、進学校に行って感じた、数少ない嫌な面というのが…
「受験に関係ないことは一切しないノウハウコレクター」が、結構な数いるということ。

そんな人たちが世の中取り仕切っていったら…、そりゃ面白くなるはずがない。

彼らから、「何をしたい」ということを感じなかった。
そして、おそらくワタシもそうなっていた。


でも、最近よく感じる。
「役に立つ」を基準にする時代は、もう終わったと思っている。

そうじゃなくて、体感したことを自分の言葉で語ることができる。

それが、「違い」を生み出す
のだと。

それは、言葉でなくてもいい。
人によっては、絵であったり、映像だったり、身体を使う方法だってある。
手段はどうだっていい話。

でも、自分の体感を表現せずに、人の共感は得られないということ。

素直な感情表現には、本当に力がある。
言葉でも、他の媒体でも、感情が乗ったモノって、動かす力があるから。

ただノウハウだけをコピーしてやったところで、絶対に真似できないから。


それを表現するには、色々なことを経験してくことで、どんどんと磨かれていく。

「自分はどう感じているの?」ここを基準にしだしてから、本当に面白いことが多くなってきている。

だから、「役に立つ」もいいんだけれども…
そんなこと言う前に、自分はどう感じているの?
そこに氣付くことが、もっと大事なんじゃないかと、思っている。