昔語りを少々。
ワタシの父、子ども時代に困窮していたからなのか、
「役に立つのか?」「金になるのか?」というのが、判断基準だった。
だから、「役に立たないこと」というのは、唾棄すべきものだと考えている節があった。
しかも、父は我慢した働いているものだから、
どうも「楽しそう」にしているワタシらを、どこか快く思っていない節があった。
だから、何かに熱中して遊んでいると、色々鬱陶しいことを言われたものだった。
しかも、インドアな遊び…例えば、ボードゲームとかが好きだったのもあって、
余計に目をつけられていたのかも知れない。
運動のできなかったワタシにとって、子どもの頃に、外に行く楽しさなんて、ちっともなかった。
はっきり言って、行きたくなかった。
氣が付いたら、ワタシも「役に立つこと」しか追い求めなくなっていた。
そして、感情を出さなくなっていた。
そこにあったはずの「楽しさ」だとか、「面白さ」だとか…
あるいは、理不尽さに対する「怒り」「悲しみ」も…
でも、「役に立つ」だけで生きていたって、面白くも何ともない。
ワタシが、進学校に行って感じた、数少ない嫌な面というのが…
「受験に関係ないことは一切しないノウハウコレクター」が、結構な数いるということ。
そんな人たちが世の中取り仕切っていったら…、そりゃ面白くなるはずがない。
彼らから、「何をしたい」ということを感じなかった。
そして、おそらくワタシもそうなっていた。
でも、最近よく感じる。
「役に立つ」を基準にする時代は、もう終わったと思っている。
そうじゃなくて、体感したことを自分の言葉で語ることができる。
それが、「違い」を生み出すのだと。
それは、言葉でなくてもいい。
人によっては、絵であったり、映像だったり、身体を使う方法だってある。
手段はどうだっていい話。
でも、自分の体感を表現せずに、人の共感は得られないということ。
素直な感情表現には、本当に力がある。
言葉でも、他の媒体でも、感情が乗ったモノって、動かす力があるから。
ただノウハウだけをコピーしてやったところで、絶対に真似できないから。
それを表現するには、色々なことを経験してくことで、どんどんと磨かれていく。
「自分はどう感じているの?」ここを基準にしだしてから、本当に面白いことが多くなってきている。
だから、「役に立つ」もいいんだけれども…
そんなこと言う前に、自分はどう感じているの?
そこに氣付くことが、もっと大事なんじゃないかと、思っている。