【哲学勉強会】(2024年5月25日(土))

《存在論と認識論について》


 哲学には伝統的に、「存在論」と「認識論」という2つの大きな分野がある。

 

 一般に、「存在論」的な見方の方が古い歴史をもっており、プラトンとアリストテレスでは、「存在そのもの」を考察するという、一般人の感覚では理解できないような深い議論がなされている。

 

 このような考え方は、「神以外の存在者(物)は、どのように存在するのか」という、キリスト教に代表される神学にも通ずるものである。

 

 4世紀後半の国教化を経て、5世紀初頭に活躍した神学者アウグスティヌス(354 - 430)によって、キリスト教の初期教義が完成したが、この過程では、3世紀に活躍した新プラトン主義者プロティノス(205? - 270)の頃より、古代ギリシア哲学を融合する形で議論等が進められたという歴史もある。

 

 17世紀のデカルト(1596 – 1650)が現れるまで、西洋哲学は、暗黙裡に「存在論」オンリーで進んできたと言える。

(「倫理学」、論証に必要な「論理学」「心理学」等は除く)

 

 デカルトより始まった『近代哲学』は、これまでの「神」視点から「人間」視点に大転換される流れであった。

 

 「人間はどのように認識するのか」のいうテーマが主題となり、「存在論」的な考察は、自ずと後退することとなった。

 

 この流れは、約1世紀後のカント(1724 - 1804)により、『純粋理性批判』(1781年刊)の中で定式化されることとなる。

 

 「存在論」と「認識論」をまとめると、

①存在論・・・「神」視点より、存在者(物)を捉え、どのように存在しているのかを考察する

②認識論・・・「人間」視点より、人間はどのように認識するのかを考察する

気付かれるかもしれないが、「存在論」と「認識論」の違いはほんの僅かである。

 

 「神」視点と「人間」視点の違いだけであり、それぞれの視点で、「最も根底的な疑問と考察」を議論する学問(分野)であると言える。

 

 科学万能主義と資本主義社会の成長も相俟って、19世紀以降、神学と哲学の「存在論」は大きく後退した。

 

 再び、「存在論」が脚光を浴びる時代が来る。20世紀最大の哲学者とも言われるハイデガー(1889 - 1976)の出現である。

 

 ハイデガーは、西洋哲学の黎明期のプラトンとアリストテレスの時代に遡り、アリストテレスとデカルト、カントにおける「存在論」を<時間性>から捉えなおすという独創的なアプローチを行った。

 

 「神以外の存在者(物)は、どのように存在するのか」という問いに対して、新たな「存在論」を構築しようとした。

 

 残念ながら、その構想は完結することなく、構想の3分の1に相当する部分が『存在と時間』(1927年刊)という書物として、刊行された。

 

 『存在と時間』は、20世紀最大の哲学書とも言われている。

 

 

<まとめ>

 短い考察ではあったが、西洋哲学史上の「存在論」と「認識論」について、「神」視点か「人間」視点の違いに着目することで、21世紀哲学のアクチュアリティーを探ろうとした。


 入口以前の段階であるが、伝統的な西洋哲学の2大分野である「存在論」と「認識論」の交差点をより深く考察することで、個人的な目標である『新哲学』の構想・構築を成し遂げていきたいと思っている。

 

 

≪参考文献≫

・I.カント 『純粋理性批判』(岩波文庫)

・M.ハイデガー 『存在と時間』(岩波文庫)

・M.ガブリエル 『超越論的存在論』(人文書院)