今回は、I.カント(1724 - 1804)の第二批判書『実践理性批判』で、カントは何を伝えたかったのかを【道徳】というキータームを中心に、考えて参りたいと思います。

 

 20世紀後半に活躍されましたフランスの哲学者G.ドゥルーズ(1925 - 1995)の『カントの批判哲学』(1963年刊)の解釈を一部援用させていただきながら、主に『純粋理性批判』との違いに焦点を当てる形で、考察を進めて参りたいと思います。

 

 [1]『純粋理性批判』と『実践理性批判』の違い

 『純粋理性批判』では、「人間は何を知りうるか」という課題に主眼がおかれておりましたが、『実践理性批判』では、「人間は何をなしうるか」が問われております。

 

 カントは、まず人間の認識能力では把握できない《物自体》を措定し、人間固有の「認識形式」により、「感性」と「悟性」を通して、それらを〈現象〉として認識するということを『純粋理性批判』において論証しました。

 

 〈現象〉は、通常理解される「自然の法則」、つまり「因果関係」で規定される法則で理解されます。

 

 しかし、【カント哲学】最大の特徴ともいえる《物自体》の世界は「因果関係」に縛られず、人間が認識し得る「自然の法則」の代わりに「自由」がキーワードとなっております。

 

 そして、人間の〈自由(意志)〉をどのような「法則」により導き、人間は生きていかなければならないのかが、第二批判書『実践理性批判』の主題となっております。

 

 前書『純粋理性批判』では、「どのようにして認識するのか」までが問題であったことに対して、後書『実践理性批判』においては、〈自由(意志)〉を「どのように導けばよいのか」がメインテーマとなっております。

 

 [2]『実践理性批判』の【道徳法則】について

 人間が考え、そして成し得る最大の善(「最高善」)は【道徳法則】により導かれ、その最たる表現は〈定言命法〉と呼ばれる「汝為すべし」であり、「・・・ならば、○○すべし」という〈仮言命法〉とは区別されており、それは無条件に判断され、場合によっては行為に移されることも要求されます。

 

 ドゥルーズは、【道徳法則】のことを「我々が自分自身を自由と知るのも、われわれの自由の概念が客観的で、積極的で、規定された実在性を獲得するのも、ただ道徳法則によってのことである」(『カントの批判哲学』第二章)と表現されております。

 

 「〈現象〉の認識」の問題は、『純粋理性批判』において、「自然の法則」により常識的、近現代の科学的認識問題の次元で論証されております。

 

 そして、『実践理性批判』では、〈現象〉の背後にあるとされる《物自体》の次元を、【道徳法則】と〈自由(意志)〉の問題として考察されました。 

 

 カントの図式によりますと、人間は人間固有の「認識形式」によって得られる〈現象〉の世界と、その背後にあり人間能力では理解し得ない《物自体》の世界が存在し、前者は『純粋理性批判』(1781年刊)、後者の一部は『実践理性批判』(1788年刊)において考察されております。

 

 [3]まとめ(今後の方向性)

 今回も概略的な解釈にとどまっておりますが、私が希求しております<<新哲学>>も、推測ですが、『純粋理性批判』を軸に、『実践理性批判』と第三批判書『判断力批判』を参照させていただきながら、進めていくものと思っております。