合い間におもうこと

 

人間、生きる上で「苦しみ」は出来るだけ避けたいと思うのが本音だが、それは避けては通れないこと、必要なこと、となるといろいろと考え方を改めなければならない。

 

 

若い頃の私は、ずっと避けよう、避けようとしていた。

 

ほんと逃げてばかり。

 

苦から逃げて楽しく生きること=人生、と思っていた。

 

またそうなればいいなとずっと思っていた。

 

 

一見よさそうだが、これは正しくない。

 

 

 

なぜか。

 

 

なぜなら、本当の「楽しさ」というのものは「苦」の向こう側にしかないからだ。

 

 

 

 

今のわたしは、ただただ結果的に「苦」の先にたどり着いてしまった。

 

いやまだたどり着けてはないかもしれないが、峠は越えたような気はしている。

 

 

もっと違うやり方があったはずだが、結果、結構無謀だった。

 

一つずつクリアしていけばよかったのに、逃げてばっかりいたから、結局それが最後に束になってやって来たという感覚だ。

 

 

 

本当の「楽」は「苦」の先にしかないということ、これをもっと早くに知りたかった。「苦」の先にはご褒美が待っているよと。

 

 

 

ただ「苦」の峠を越えると、同じ漢字ではあるが「楽しい」から「楽になる」という感覚の方が強くなるような気はする。

 

 

楽だなと感じるのは、「苦」を抜けると、幸せのハードルがやたら下がっていて、例えるなら、インフルエンザに罹って数日間、咳や吐き気、高熱でうなされた後、ただ日常が戻っただけで「あぁよかった。なんて幸せなんだろう。」と思う感覚に似ている。

 

 

いい意味で、いろんなことに関して、心が薄まるというか、心が萎えてきた。

 

 

心が萎えて来たから、「楽しい!」から「楽になる」のだろうと思う。

 

我ながら、いい萎えに育った。

 

 

 

ここで大事なことは、そう考えると結果的に楽になるのだから、「苦」とは前向きに付き合えるはず、ということだ。

 

 

 

 

ここで思い出すのが、

 

五木寛之氏の「朝顔は闇の底に咲く」のおはなし。

 

朝顔日記を毎日つけている少女の疑問は、『どうして朝顔は、朝になってあの大輪の花をきちんと咲かせるのだろう』ということ。

 

ひとつの仮説として

『アサガオの花が開くためには、夜の暗さが必要なのではと考えた。』

 

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『そうか。朝顔が朝開くのは、夜明けの光とか暖かい温度のせいではない。

 

夜明け前の、冷たい夜の時間と闇の濃さこそが必要なのだ。朝顔は夜の暗い闇の中で花を開く準備をするんだな。』

 

 

 

朝顔だけでなく、桜もチューリップなどの球根も、一定期間以上(数日ではダメ)、冷気の中で過ごさないと春になっても芽が出ないといわれています。

 

 

これぞ正に、天地人三歳の窓口のおはなしにもなりますね。

 

 

 

もうひとつ、月刊誌「致知」を創刊された前編集長の藤原秀昭氏の「小さな人生論」より引用させていただきます。

 

『節から芽がでる。

 

あるとき、いただいた挨拶状の片隅に、たった一言、この言葉がしたためられていた。当時苦しい状況の中にあることを見越してある方が添えて下さったのである。

 

その言葉は天啓のように、心に響いた。

 

ああ、そうか。人は望まないのに、苦しい状況や辛い目に遭うが、それは人生の節なのか。そしてその節から新しい芽がうまれてくるのかー

ー心の中に、一筋の光が灯ったような喜びと感動があった。

 

植物の生命はしばしば、大自然の摂理のなんたるかを、我々人間に教えてくれる。

 

宇宙の哲理は奥深く、味わい深い。(小さな人生論第六章より)』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

▶算命学を勉強中。そこから学んだ生き方を記録しています。(自分勝手な解釈で正解かどうかはわかりません(__))

 

古代人たちは、神さまは自然そのものであることに気付き、それらが起こす”自然現象”をすべて”神さまの意志の現れ”と受け止めました。

そして心の感性と次元を上げて、その意思を読みとらなければ、神さまを味方につけることはできない。なぜなら苦しみから自分を救うのは神ではなく自分の心だから。

原典算命学体系はこの視点と方向性から書かれてあります。(と思って読んでいます。)