日本文化を表現する言葉として侘び、寂び、というものがある。この言葉はそのまま英語にもなっている。それ以外にも日本や、日本文化、日本人を表現する言葉としては幽玄、雅、粋、華、そして恥、誉というものがある。

 

恥と誉は対義語の関係にある。誉は英訳すると多くの辞書ではhonorで栄誉とか名誉とかの意味だ。誉にはもちろんこの意味を含んでいるが、日本人を表す場合は、むしろdignity、これは尊厳とか品格といった意味だ、に近いのではないだろうか。恥や誉という言葉はもちろん外国語にも存在しているが、日本語の場合には、かつては生活様式の基本となる概念であり、行動規範となる概念であった。このことは日本独自の文化であると考える。

 

地獄門は1953年に公開された大映の作品だ。この映画はカンヌ映画祭でグランプリ、米アカデミー賞で衣装賞、名誉賞を獲得している。大映にとっては初めてのカラー作品でもある。

 

 

監督は衣笠貞之助、主演は当時の大スター長谷川一夫と京マチ子。原作は菊池寛の袈裟の良人だが、原作は映画のクライマックスの部分に当たり、それ以前の物語は新たに付け加えられている。

 

物語は平清盛が厳島神社参詣で京を離れた際に勃発した平治の乱から始まる。上皇とその妹、上西門院の脱出の際に、敵を欺くために身代わりが仕立てられた。その身代わりに志願したのが、京マチ子演じる袈裟で、その御車の警護に当たったのが長谷川一夫演じる盛遠である。御車は襲われるのだが、盛遠は襲撃から袈裟を救い出す。その際に盛遠は袈裟を見初めてしまう。盛遠は袈裟を救出したのちに、厳島へ向かい清盛に乱の勃発を報告する。

 

清盛による乱の平定後、功労者に褒美を与えるのだが、盛遠に対してはどのような望みでも叶えるので何が望みか申し出るがよいと告げる。盛遠は即座に袈裟との縁談の仲立ちになってほしいと申し出た。いったんはその望みを引き受けた清盛だが、袈裟が渡邊左衛門尉渡の妻と判明すると、清盛は盛遠に対しあきらめるように諭すことになる。

 

 

あきらめきれない盛遠は袈裟の叔母を脅迫して袈裟を呼び出させる。叔母宅を訪問した袈裟に対し盛遠は執拗に関係を迫る。その執拗さに断り切れなくなった袈裟は、盛遠を受け入れる代わりに良人渡を殺害することを依頼する。

 

その夜、渡の寝所を襲った盛遠だったが、彼が殺害したのは良人の身代わりとなった袈裟だった。平治の乱の際は上皇の身代わりとなった袈裟を敵の襲撃から救った盛遠が、その手で良人の身代わりとなった彼女を殺めてしまった。その事実を知った時、盛遠は渡のもとへ向かい、自身の首を刎ねよと告げる。

 

事実を確認したのち、渡は袈裟の思いを認識する。無常観に打ちひしがれた渡は、盛遠に対し、そちを打ち取ったとて詮無きことと告げる。

 

その言葉に行き所を失った盛遠は、髻を切り出家することとなる。

 

 

この最後の部分は、源平盛衰記で語られているものだ。盛遠は出家したのちに文覚聖人と呼ばれることになる。昨年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で市川猿之助が演じていたあの怪僧である。文覚聖人はあまり評判が良くなかった人物であり、僧の前日譚として袈裟と盛遠の話が創作されたと考えられている。

 

この物語に触発されて芥川龍之介は「袈裟と盛遠」を執筆し、菊池寛は「袈裟の良人」を執筆した。いずれの作品も人の心の裡を描き、極限において人が決断する過程を表現した傑作だ。

 

衣笠貞之助の映画もこれらの作品を基礎にして人の尊厳、日本人が持っていた恥と誉という文化を表現した品格のある作品だと私は感じた。それゆえにこそカンヌでパルムドールに値するグランプリを獲得した。文化の浅いアメリカではアイキャッチ―な雅な衣装にしか目が届かなかったということだろうか。

 

 

しかし当時のアメリカ人は、現代の私たちよりもよっぽど深く、日本人というものを認識していたのかもしれない。それは日米戦により極限に至った時の日本人の行動を目の当たりにしていたからだ。例えばKAMAKAZI Attack, Banzai Cliffから飛び降りる女たち、また沖縄の洞窟での集団自決などなど。これらの行動は、軍部によって強制されたと強く訴える人たちがいるが、そのような側面も否定できないにせよ、最終的には一人一人が極限状態の中で自死という道を選んだものである。その根底には日本人としての尊厳を保ったまま美しく死にたいという考えがあったのだろう。その考えこそが恥と誉の概念であり、それは日本人が持つ独特の無常観に基づいたものだ。

 

だからこそGHQの占領政策により恥と誉という概念は否定され代わって物質主義による大量生産大量消費の社会が戦後構築されていった。

 

 

私がこの映画を見て面白いと思ったのは、今は観られなくなってしまった日本人論を正面から訴えていると感じたからだ。私にとって袈裟はすでに滅んでしまった大日本帝国を、盛遠は対米追従に舵を切りひたすら物質主義に邁進していく集団を、そして渡はいまだ敗戦の後遺症を引きずり無常観の中でそれでも生きていかなければならないという人々を表しているように感じた。

 

このように書いたが作品自体は大変面白いエンターテインメントだ。説教臭いところは一つもない。当時の事情を鑑みて学校もろくに出ていない人々も楽しめる内容となっている。翌年に公開された東宝の七人の侍、ゴジラがそうであったように。

 

 

京マチ子の、平安美女はこうであったろうと思わせる演技がとても妖艶で魅力的だ。顔の表情や所作、ゆったりとした話し方など、幽玄の世界が目の前に迫ってくるようだ。また渡邊渡を演じた山形勲もいい味出していた。主役の長谷川一夫は大スターで、この人目当てに映画館に行く人が多かったのであろうが、現代の目から見ると、17歳の盛遠を演じるにしてはいささか歳食いすぎだ。公開当時は45歳。16歳の袈裟役を演じた京マチ子も29歳だったが。またこの映画は大映初のカラー映画であり、多様な色彩が平安絵巻を思い起こさせ、その意味でも目を見張る作品だ。この作品は2011年に角川とNHKによりデジタルリマスターされており、今見ても映像自体は古臭さをあまり感じさせない。音声に関しては聞き苦しいことはないが、若干こもっており、時折音割れも聞かれた。今のAI技術を使えばより鮮明な音響は可能であろうから、角川にはぜひ最新の技術でのデジタルリマスターを制作していただきたい。

 

 

ほかに気になったところでは平清盛だ。映画では厳島神社に坊主頭で参詣に行った際に平治の乱が勃発している。平治の乱は平治元年(1159年)に勃発した。清盛は仁安2年(1167年)に病に倒れ生死の淵をさまよい、その際に得度して清盛入道となっている。本人も驚いたろうが、清盛は奇跡的に回復し、それ以降厳島神社の整備に励み、福原のまちづくりに集中していく。映画で見られるように清盛入道が厳島神社の境内で奉納舞を観覧することはあり得なかったのである。実際平治物語では清盛が熊野参詣で京を留守にした際に勃発したと描かれている。

 

衣笠監督も大映もこのことは十分に理解していると思うが、なぜこのような脚本にしたのだろうか?

 

 

一つ考えられるのは、この映画が当時の大衆演劇の延長線上に位置するものだからではないだろうか?大衆演劇では清盛といえば入道の姿で厳島参拝というのが観衆の望んでいる姿だったのではないだろうか。そのように考えれば長谷川一夫が17歳の少年を演じ、京マチ子が16歳の少女を演じたのも納得できる。

 

いろいろと書いたが大変面白い映画だったし満足度も高い作品だ。私の評価は4.5、満足度は90。

 

 

ご興味のある方はアマゾンプライムで現在配信中だ。その際に菊池寛の「袈裟の良人」と芥川龍之介の「袈裟と盛遠」を読んでいれば、理解も深くなると思う。いずれも青空文庫で閲覧可能で短編なので10分もあれば読了できる。

 

 

最後に、この映画に限ったことではないが、疑問点を一言。

 

清盛はんは京言葉をしゃべってはったんとちゃいますの?