私は10年後くらいにAIの技術が世界に大きな影響を及ぼすことになるのではないかと思っていたのだが、人類の叡智はそれよりも早くAIが社会の隅々にまで影響を及ぼす世界の訪れが来ることをもたらすようだ。

 

今年4月に米グーグル社が発表した自然言語処理に関して複数のタスクを同時に処理できるPathways Language Model (PaLM)はもはや汎用AIと呼んでいいものかもしれない可能性がある。

 

例えばalpha GO (碁)が人間の棋士に勝利したという発表があったのは2010年代の後半であったと記憶するが、これは碁などに特化したAIである。PaLMは人による教育を必要とせずに多くの処理ができるシステムのようだ。詳細はグーグル社が公表していないのでいまだ未知数の部分があるが、おそらく現在人の手により行われているほとんどの仕事は、PaLMを使用することにより、より早く精度の高いアウトプットが得られることになるのだろう。

PaLMの詳細が分かってくるのは年末から来年にかけてなのだろうと思うが、alphaGOから今までの経緯を鑑みるに今後3~5年くらいで世界の企業の在り方というものが劇的に変わるのではないだろうか。

 

生産現場の無人化まではもう少し時間がかかるのかもしれないが事務処理(情報収集から企画立案、そして決定事項に関してのいくつかの選択肢の提案とその結果予測までの処理)はPaLMもしくは競合他社による汎用AIのシステムにより行われるという社会が目前に迫っていると考えて良いのかもしれない。

 

グローバルな市場に比重を置く企業から意思決定のシステムの導入が始められ、それは多くの一流企業と呼ばれるものに普及していくのは時間の問題だろう。国や地方の行政についても導入は必然的だ。既得権益の抵抗により導入は遅れるかもしれないが、業務の効率化=税金の有効な使い方、についての情報公開の圧力により行政のAI化は思ったより早くなるのではないだろうか。

想像していたよりも早く多くの人たちが今の仕事を失う時代が訪れそうだ。そうなってくると子供たちの教育というものをどうするのかが差し迫った問題なんではないだろうか。今の小学生たちが塾に通って知能の底上げや試験対策を行って仮に東大や京大に入って卒業したとしてもグローバルに活躍する超一流企業に勤めることはできないかもしれない。ほんの一握り数パーセントの学生しか希望する職業に就けない世界になっている可能性がある。

ご近所の住民を顧客としたパン屋や居酒屋などが今の業務形態から大幅に変わるとは思えないが、全国チェーンのスーパーやコンビニなどは劇的に変わっているだろう。タクシーやトラック運転手は自動運転によりなくなる業種だ。マイカーといったものも、ポルシェやフェラーリなどのマニアックなガソリン車は残っても、残りは自動運転のカーシェアリングとなっていくであろう。

 

そうなった場合私たちはどの様にして生きていくのだろうか。現在竹中平蔵などが声を高くして提唱しているBI(ベーシック・インカム)は近い将来、職にあぶれる大量の人々の出現を見越してのことであろう。ただ既得権益にどっぷりと結びついた政治家たち(与党だけでなく野党も)により迅速な対応が望めないのが現状だ。

 

そうなった場合、堀江貴文などが言っているように国家に属するよりもグーグルやアマゾンが提供する社会に属する方が一般人にとっては便利だという選択肢も出現するだろう。

 

仮想通貨の出現により貨幣の発行は国家の専売権益ではなくなりつつあることは既存の国民国家という概念が砂上の楼閣にしか過ぎないことを意味し、そのことが世界中の人々の間で認識されていくのかもしれない。

 

そのような社会が訪れるのは時間の問題の気がする。その場合、人にとっての生きる意味が大きな課題になると思う。AIの深化はGNRの技術の進化をもたらし、それは人の寿命が延びることに帰結する。長く生きることが可能になった社会で人はどの様な生き方に幸せを覚えるのであろうか。

現代は個人主義が蔓延した社会だ。それに加えて資本主義社会が生み出した物質主義も主流となっている。これらの要素は今までは社会の発展に大きく貢献した。私の実感では80年代くらいまで、日本でいえば昭和の時代、まだ宗教による人々への制約が生きていたと思う。宗教の制約とは具体的に言えば博愛、慈悲の心であり、献身、自己犠牲の精神であり、それは個人主義、物質主義の拡大に歯止めをかけていた。日本に限らず、西側諸国ではこの精神がまだ生きていたと思う。

 

90年代以降、ソ連の崩壊による社会主義のくびきが崩れ去ると新自由主義(権力闘争の勝者のみが富栄えるといった社会主義システムの資本主義バージョン=ネオコン)という考えが主流となり、それはごく一部の資本家に莫大な富が集まるシステムというものになって行った。

 

富の集中はAIの社会への普及により天文学的な規模となるであろうと思われる。飽くなき物質主義の拡大に人としての幸せはあるのであろうか。それはスターウォーズやガンダムで述べられたように権力闘争を宇宙にまで広げるものでしかないのかもしれない。

科学者たちの中にはそのような社会を憂い、特に超AI(人類の知能を超えた存在)に対してどのような制約を設け、それをAIのアーキテクチュア―に組み込んでいくかの取り組みは進められている。イーロン・マスクが資金援助しているFL1ではアシロマAI原則なるものを2017年に発表した。

 

核兵器はその威力により人類を破滅させることが可能であるがゆえに、広島・長崎での実験以降は為政者たちによりその使用が抑制されてきた。

 

翻ってAIはその利便性ゆえにすでに私たちの社会に導入されているし、その普及は加速度的なものとなって行く。しかしその破壊力については多くの人たちが深く考えてはいないようだ。特に経済効率のみを重視した資本家や為政者たちによるAI社会の構築は多くの人々に不幸をもたらす可能性があることは否定できない。

私自身はGAFAMが目指している社会の方向性については基本的に賛同できる。しかしビッグテックの技術がネオコンまたは全体主義者(双方とも同根)に利用される未来というものも否定できない可能性だ。

 

スピルバーグの映画レディプレイヤー1は極上の娯楽作品であるが、そこには近未来社会に関しての彼自身の警告も含まれている。主人公たちは定職も持たずおそらく最低限のベーシックインカムとゲームによる収入で貧しい暮らしをしている。その反面仮想現実を運営している経営者やその顧問弁護士たちは多額の報酬を得ている。そして仮想空間の創業者は国際資本にその世界を合法的に奪われ、彼の目指したものとは全く違う弱者からの搾取というビジネスツールとされてしまっているという社会だ。

 

60年前天才数学者岡潔はこの事を憂いていたのだと今痛感する。レディプレイヤ―1の世界を回避するためにはやはり人間が本来持っている真善美の心に立ち返るべきだと思う。以前のブログで既に述べたので繰り返さないが、欲望に支配された物質主義社会でなく、真善美を尊重する情緒に主導された世界だ。

人は社会的な生き物である。社会の中で居場所を求めて、その一部として社会に貢献することによってしか真の喜びは感じられない。物質主義に侵された心には心の安寧が留まることはなく、飽くなき欲望を満たすために、走り続けなければならず、そのことにより人の心は疲弊していく。

ロシアとの問題は年内か来年には終了するだろうし、次に起こりそうな中国との問題も5年以内には解決するだろう。その次に控えるのがAIを利用したネオコンが支配する物質主義および全体主義の世界とAIを利用しながらも人の持つ真善美を尊重するローカルグループ(国家とは限らないかもしれない)が分散型ネットワークを構築した社会との戦いになるのであろうか。