「十二単衣を着た悪魔」は著名な脚本家であった内館牧子が2012年に発表した小説であり、それを原作として女優黒木瞳の監督作品として2020年11月に上映された映画である。

 

私にとって内館は横審の時に朝青竜に対して「品格がない」と毎場所の様にダメ出ししたこわもてのおばさんである。印象としては櫻井よしこでさえ目を伏して道を開けるような保守のラスボスだ。(あくまでもイメージ。彼女は政治的な発言はしていないと思う。)

 

その彼女の小説だ。おまけに日本が世界に誇る世界最古の女流作家の小説である「源氏物語」をベースに執筆した作品だ。どんな内容かと襟を正して正座して(あくまでも気分的に)読んだのだが、拍子抜けしてしまった。予想に反して文体が軽いのである。軽すぎるのだ。まるで中高生向けのラノベのラブコメだった。

 

 

内容は就職試験に59回も失敗した三流大卒フリーターの主人公伊藤雷(らい)が落雷をきっかけとして蛍に導かれて源氏物語の世界へ迷い込み、そこで桐壷帝の正妃弘徽殿女御(こきでんのにょうご)と出会い、彼女の専属の陰陽師雷鳴(らいめい)として源氏物語の世界=光源氏とその恋の相手との駆け引きや、宮廷内での権力闘争、平安時代の生活状況、結婚風景、ふろやトイレはどうしたとか、夜は暗く、冬は寒く、夏は暑いとかのエピソードがちりばめられているものだ。

 

弘徽殿女御は紫式部の源氏物語では主要な登場人物ではない。光源氏の母親である桐壷や、愛人であり桐壷帝の皇后となった藤壺を暗に虐めた人物としてその名が出て来るのみの人物だ。何となく嫉妬深くて嫌な女の印象が原作からは持たれるのであるが、内館はその彼女にヴィランの役割を与え、現代にも通ずる独立した一個の女性、そして一人息子を溺愛するような、より人間的に深みのあるキャラクターを設定した。その彼女を通して源氏物語を裏側から見るように物語を再構築している。

 

黒木の映画では内館の小説を基本としながらも、ダメ人間伊藤雷が源氏物語の世界で陰陽師伊藤雷名として弘徽殿女御と春宮(とうぐう)を助けながら、人として成長していく物語になっている。

 

伊藤雷役は伊藤健太郎が演じ、弘徽殿女御は三吉彩花が演じている。小説ではブスとして描かれている雷鳴の妻、倫子(りんし)を演じる伊藤沙莉がとてもよい。

 

源氏物語の世界では女は男の持ち物である。恋の駆け引きはあっても、男に逆らったり歯向かったりすることはない。その中で弘徽殿女御だけが、明確な意思、息子の春宮を帝にしたい一心で、桐壷帝や、左大臣、光源氏などと向き合いながら戦略を巡らして野望をかなえて行った。小説の中では生まれる時が1000年早かったと雷に言わせている。彼女はおそらく内館の女傑の側面を反映させたものであろう。

 

伊藤雷はいつしか弘徽殿女御の人柄に魅了されて彼女を支えることにより春宮を即位させることに尽力していく。

 

 

小説では雷鳴と弘徽殿女御のエピソードに光源氏の恋愛風景が絡んでくるのだが、映画では源氏物語ではメインとなる光源氏と女たちとの恋模様がハイライト的にしか描かれていない。

 

また1000年にわたって女たちの身も心もとろけさせてきた光源氏が映画の中ではそれほど魅力的に描かれていない。黒木がどのような理由からそのような演出をしたのか判断できないが少なくとも私には肯定的には映らなかった。

 

源氏物語ではハイライトとなるべき六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)の生霊の場面や光源氏と女たちとの濡れ場の場面では、もっと妖しく官能的に描いて欲しかったと多くの視聴者が感じたのではないだろうか。

 

ケチばかり付けているようだが、映画全体からくる印象は否定的なものではない。それは内館や黒木がこの物語に込めた熱い思いから来るものだ。それは光源氏という才能に恵まれた一人の男に翻弄されていく、女たちや権力闘争を描いた源氏物語の世界に、弘徽殿女御という女を一人の人間として確立された主張を持った存在と定義付けし、また雷鳴という現代人に一人の女だけを愛することを言葉だけでなく行動で示す存在と定義し、平安女、倫子と結婚させ、倫子がこの物語の女たちの中では誰よりも一番幸せを実感しながら死んでいくことを描くことにより、源氏物語の世界観を破壊し再構築しようという思いである。

 

源氏物語という確立された物語世界の中でのこの二人の行動は様々なハレーションを起こしながら、新しい価値観で以って物語、その結果を変えることなく、それぞれの意味を再構築していった。それこそが小説「十二単衣を着た悪魔」のテーマである。

 

 

映画の場合は、より多くの観客に訴えるために、小説のテーマは裏に回り、主題としてはダメ人間伊藤雷の成長譚というベタなテーマに絞られた。それに現代の行き過ぎた物質文明、それが及ぼす光害や騒音などの文明批判を暗に提示しながら、平安の世界で生きようと決意した伊藤雷が、その意に反して現代に再び戻り、そして平安の生活に思いを残しながらも今を生きようと前を向いた時に、源氏物語の世界から希望というプレゼントが送られてくる。彼に幸せへの道筋を示しながら映画は幕を下ろした。

 

この映画についてメディアでタイムトラベル映画といった解説がなされているが、それは間違いだ。この映画は1000年前にタイムスリップした主人公伊藤雷のお話ではなく、1000年前に紫式部によって書かれた「源氏物語」という物語世界へ迷い込んだ伊藤雷のお話である。いわゆる今はやりの異世界譚であり、アリスがせわしなく走り回っているウサギを追いかけて木の洞(だったかな?)からスペードの女王が支配する不思議の国へ迷い込んだファンタジーと同じ種類に属している物語というのが正しい。

 

源氏物語の主要な読者は女だ。もちろん本居宣長のような著名人も読んでいるが、平安時代から10代~20代くらいまでの女たちが主な読み手であった。それを考えると内館がなぜライトノベルのラブコメ仕立てにしたのかも理解できる。

 

黒木演出も内館のラブコメ路線を引き継いだ連ドラ仕立ての軽いノリの演出だ。女たちの熱すぎる熱意が十分に伝わってくる。戸田菜穂や伊藤紗莉もそれにこたえるかのような素敵な演技を見せてくれる。三好彩花も彼女にとっては大変ハードルが高い役だったと思うが十分魅力的に弘徽殿女御を演じた。伊藤健太郎も頑張ったが女優陣の頑張りに比べると少々物足りない。もう少しはじけた演技の方が良かったんではないか。

 

 

この映画は「女による、女のための女の映画」だと思う。

映画の最後のシーン、満開の桜の中でのエンディングは東京女子大のキャンパスで撮られたものである。卒業生には瀬戸内寂聴、森英恵、永井路子などがいる。黒木がこの場所をラストシーンに選んだ理由はそういうことなんだと思う。

 

この映画は興行的には失敗作だと言われている。コロナ禍でひと月前に「鬼滅の刃無限列車編」が上映されて、多くの映画館が売り上げ確保のために鬼滅の上映を優先し、スクリーン数が限られていたためかと思うが、ネットのニュースでは黒木に対しての批判が多かった。

 

しかし映画.COMの評価では3.5、Filmarksでは3.2、アマゾンでは4、いずれも5点満点中、高評価が多い。例外はヤフーの評価の1.5点だ。80%の人が1と評価したからだ。私自身は3.7なので、少々甘い方だろうか。

 

好き嫌いがあるのでそれぞれ評価は分かれるかとは思うのだが、それにしても1(最低点)はひどすぎると思う。最低点という評価を付けるのであれば、製作サイドの熱意や意図を十分にくみ取り、理解したうえでつけるべきだ。

 

今後、このような口コミの評価というものはますますビジネスにおいて影響力を持ってくる。今からでも、プラットフォームの運営側は評価基準を明確にして、それを厳格に守り、その規定に抵触するユーザーについてペナルティーを課すようなシステムを構築していかねばならないだろう。もちろんメディアの報道の在り方にも根本的な改善が必要だ。

 

初対面時に伊藤雷鳴が、これから弘徽殿女御のために身を尽くして仕えるとか言う趣旨の説明をしている際に、弘徽殿女御がそれを遮って「やかましい!男は能力を形にして示せば、それでいい」と言い放った。

 

 

この言葉はエンディングでも出てくる。昭和女の熱いメッセージなんだろう。私自身はこの言葉をひれ伏して受け賜った。