「万引き家族」は2018年の是枝裕和監督作品だ。カンヌ国際映画祭で最優秀作品賞であるパルムドールを受賞し、日本アカデミー賞では数々の賞を受賞し、キネマ旬報ベストテンでも堂々の1位に輝いた秀作なのでご覧になった方々も多いだろう。

 

リリー・フランキー演じる柴田治は工事現場で働く日雇い労働者で。安藤サクラ演じる妻の信代、松岡茉優演じる信代の妹亜紀。樹木希林演じる母親の初枝、そして息子の昇太の一家五人で粗末な一軒家に暮らしている。家は貧しく治は息子の昇太に近所のスーパーや店で万引きをさせ家計を賄っているような極貧の生活を営んでいる。

 

治が昇太に万引きをさせて家に向かっているある寒い冬の夜に、途中のアパートの一階の廊下で一人でいるゆりという女の子を拾ってくる。治はたびたびその女の子が一人で同じ場所にいるのを目撃していたので、かわいそうに思っていたようだ。

 

こうして6人での貧しい生活が始まった。

 

しかし物語が始まるにつれ、この家族には血のつながりがないことがほのめかされる。それでも万引きと見ず知らずの女の子を保護(誘拐)したこと以外は貧しいながらも普通に暖かい家族の姿を描いている。

 

 

その家庭が崩れるきっかけは初枝の死からだった。治と信代は初枝の遺体を床下に埋めて、最初から初枝がいなかったことにしてしまう。その後、ゆりがスーパーで万引きすることに躊躇っている姿を見て昇太はわざと捕まるように万引きをしてスーパーから逃げ出した。

 

逃走途中で足を怪我した昇太は警察に補導され、そのことがきっかけとなり一家は警察に取り調べられ、まったく血縁関係がなかった家族の実態が明らかにされる。

 

死体遺棄や幼女誘拐の罪は信代一人が自ら望んで被ることとなった。禁固5年の服役となり、疑似家族はばらばらとなった。

 

ゆりは親の元に返され、昇太は児童施設で暮らし、小学校へも通っている。

 

息子の昇太も松戸のパチンコ屋の駐車場で車の中で、おそらく熱中症でぐったりとなっているところを信代と治に保護されたようだ。

 

ゆりも実の父親の母親に対するDVと母親からの育児放棄の被害者であったのだが、実の親の元に戻された後でも状況は結局変わらなかったようだ。

 

物語を通して犯罪者である、治と妻の信代の人としてのやさしさ、やさしさゆえに犯罪を重ねてしまう愚かさが描かれている。

 

最後の場面は散り散りになった後、治と昇太が一晩だけ再会し、翌日にバス停で別れる場面、治は離れ行くバスを「昇太」と叫びながら追いかけ、昇太はそれを無視し、治の姿が見えなくなったころに無言で帽子を脱ぎ振り返る。またゆりはふたたび治と出会ったアパートの廊下で一人遊んでおり、ビールケースの上に立って手すりの向こうを無言で眺めている。

 

法を無視して情を優先して成立していた疑似家族も結局は体制の秩序の中に組み込まれ、その中で人生を送らなければならない姿を描いて物語は終わっている。

 

これからも生きて行かなければならない幼い昇太とゆりの将来に希望を見出すことが難しい終わり方だ。私としては幼い二人にはもう少しわかりやすい将来への道筋を見せて欲しかった。

 

もう一つの作品である「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」は2001年の作品だ。日本は失われた十年の真っ只中にあったが、経済規模は世界第2位で全体的に自信に満ちた社会であり、エンタメ業界も相対的に予算確保に苦労しなかった時代だ。

 

「クレヨンしんちゃん」は野原しんのすけを中心にお下品ながらも笑いが絶えないほのぼのとした野原家のエピソードを描くことがその主題である。映画化においてはそれにエキサイティングでより大きなスケールの物語が描かれている。

 

この主題を守っていれば、何でもありである。この作品は子供向けの作品であるが、それと同時に親の世代、当時で30代後半から40代くらい、1970年に子供時代を過ごした親世代をターゲットにしている。

 

物語はある悪の秘密結社「イエスタデイ・ワンスモア」により埼玉県春日部市に建設された20世紀博が舞台となる。そこでは1970年の大阪万博のセットと、当時の昭和の街並みが夕景の中に建設されている。万博会場では当時子供たちの間で流行ったウルトラマンや魔法使いサリーのようなものに変身できるコスプレが楽しめて、自身がその姿で参加したアトラクションを専任のスタッフが撮影してくれる。また昭和の街並みでは今や絶滅寸前の八百屋、魚屋、総菜屋などが品物をラップにくるまずむき出しのまま店頭に並べている。

 

「イエスタデイ・ワンスモア」の首領は「ケン」でその同棲あいては「チャコ」だ。ケンは藤田嗣治を、チャコは当時のスターいしだあゆみや倍賞美津子を思わせる風貌だ。もしかしたらジョンとヨーコをモデルにしたのかもしれない。

 

彼らの目的は20世紀(昭和)の時代に人々が一般的に接していた「におい」を武器にして、無味乾燥な21世紀の社会からそこら中に「におい」が漂っていた20世紀(昭和の時代)に戻そうというものである。

 

春日部の大人たちは彼らの謀略に嵌められて、家庭を放棄し子供時代に戻って駄菓子を食べまくり、遊び惚けるに至った。

 

そこで困ったのがしんのすけを始めとする春日部の子供たちである。親を取り戻すために「イエスタデイ・ワンスモア」との戦いが始まる。その場面は大変面白く見どころ満載だ。ある場面ではドリフのコントさながらの笑いがあり、別の場面では007のような迫力満点(?)のカーチェイスがある。

 

そしてケンの言葉から20世紀の「におい」が大人たちを洗脳していると察知したしんのすけは(賢い子供だ!!)、現在のにおいをかがせることにより父親と母親を覚醒させる。

 

父親が覚醒する場面は観客である親たちが涙なしでは見られない場面だ。ひろし(父親)の子供時代から、成長し学生から社会人になり、みさえ(母親)とであい、しんのすけがうまれひまわり(妹)がうまれ暖かな野原家が生まれるまでが台詞なしの音楽のみの回想シーンとして挿入されている。

 

ひろしとみさえが覚醒したのちは野原家とケンが率いるイエスタデイ・ワンスモア軍団との戦いの場面だ。春日部(?)タワーでスリル満点のアクション(?)シーンが展開される。ここではお決まりのみさえの尻のドアップやM字開脚、しんのすけのふるちん姿といったお下品な場面が堪能できる。

 

最後は野原家がイエスタデイ・ワンスモアの野望を打ち砕き春日部の大人たちを解放する場面だ。ここではよしだたくろうの「今日までそして明日から」が流れてこばやしさちこの歌うエンディングへと向かう。

 

この映画の主題は万人にわかりやすいものとなっている。しかし昭和ノスタルジーに浸るだけでなく、21世紀の進む方向に対しての疑問もしっかりと提示している。

 

 

このような観客目線まで降りてきてエンタメという基本を忘れずに作者(監督、製作人)の思いも同時に表現するといった映画は20世紀までは少なくなかった。

 

映画は監督で選ぶといった考えがあったのは確かだ。現在でも、洋画でいえば、スピルバーグ、リドリー・スコット、ノーラン・ライアンなど注目する監督は多いが、こと邦画に限って言えば、熱心な映画ファン(おたく)以外は監督で実写映画を見ないのではないだろうか。強いてあげるとするならば山田洋二と庵野秀明は相当するのであろうが。

 

是枝裕和や河瀨直美、蜷川実花(フォトグラファーとしては一級品)等々は日本を代表する映画監督であるはずなので自慰行為に耽るのではなく、少しは観客を楽しませることを考えるべきだと思う。しんのすけを見習えと言ったら失礼かもしれないが黒澤明や市川崑の爪の垢を煎じて飲むくらいはやったほうがいい。

 

最後になるがしんのすけが映画を通してひまわり(妹)を背負う姿で活躍している姿に思わず感動してしまった。ベタではあるが、映画とはそういったものでいいのではないだろうか。