古代エーゲ海に栄えた国々ではオリュンポスの神々たちが崇拝されていた。その神々は怒ったり、笑ったり、恋したり、嫉妬したり、という私たち人と何ら変わることのない気性の持ち主であったが同時にスーパーパワーも有していた。そしてギリシャを筆頭とするエーゲ海文明の国々はローマ帝国に支配されていくことになるが、オリュンポスの神々はローマ帝国の中で生き延びていった。これらオリュンポスの神々を信奉している国家は、政治的対立や侵略戦争などが絶えず平和な時はあまりなかったのであるが、政治自体は民主的に行われている国々であった。

 

しかし帝国内でキリスト教が普及し始めるとオリュンポスの神々たちの世界に陰りが見え始め、4世紀初め皇帝コンスタンティヌス一世はキリスト教へと自身改宗し、そして西暦325年のニカエア公会議において彼はキリストが神であると声明を公式に発表した。ここにローマ帝国は聖書を唯一神であり絶対神の声と定義し、ローマ教会が神の声を代弁し、皇帝が行政を行うという権力システムが確立し、オリュンポスの神々は安楽死していった。

 

今、世界遺産になっているパルテノン神殿などオリュンポスの神々の遺産は廃墟であり、そこに神々は居られない。彼らはすべて死に絶えて空の星々となってしまい、僅か神話の中で語られるのみである。

 

 

その後ローマ帝国は西欧に居住していた多神教のケルト人たちをブリテン島に追いやり、ローマ衰退後はそこにゲルマン民族が侵入し、フランク王国を打ち立てる。西暦800年、フランク王シャルル一世は教皇よりローマ皇帝と戴冠されローマ皇帝カール一世と名乗り、西ローマ帝国の再建を目指すこととなる。彼はカール大帝と呼ばれ古代の文化とキリスト教文化およびゲルマン精神を組み合わせた文化を花開かせそれはカロリヌ・ルネッサンスと呼ばれた。神聖ローマ帝国の誕生は962年オットー1世のローマ皇帝即位によるとされている。

 

西暦1095年教皇ウルバヌス2世がフランス、クレルモンの群衆に対して演説を行った。教皇はイスラムの圧政に苦しむビザンティン帝国を救い聖地エルサレムを奪還するために「聖戦」を唱え十字軍の勧誘を行ったのである。これは正教に属さない邪教に対して主の御名において行う正義のための戦いの始まりであった。これ以降、主の御名において行われる武力行使は世界の海に拡大していくこととなる。16世紀に入るとレコンキスタ(国土回復運動)に熱狂したスペインとポルトガルのカトリック国はイスラムを駆逐しユダヤを迫害していった。そしてイエズス会と共に南北アメリカ、アフリカ、インド、インドネシア、フィリピンなどを次々と征服しカトリックを布教していった。

 

 

しかしローマ教皇の下での封建社会である絶対王政は、しばしば王の暴走により諸侯や民衆に、度重なる兵役義務や増税といった負担を強いていった。そのような王の暴挙に制約を設ける必要があった。1215年イギリス議会ではローマ教会の抵抗をはねのけてマグナカルタを制定し、ここに、神ではなく法の支配という概念が誕生した。しかし、法の支配と民主主義という社会は、1776年のアメリカ合衆国建国、1792年のフランス革命まで待たなければならなかった。これにより法の支配、三権分立、民意による政治というものが確立されていった。民主主義革命とはいわば権力の神(聖書=教会から委任された王)から人(憲法による法の支配)への移譲ある。このことは産業革命による王侯貴族とは違う、資本家といった新たな階級の誕生と、効率的な企業運営のために必要であった民衆の教育水準の向上により生みだされたものだ。民衆の知識の向上により達成された革命が民主主義といった概念であった。

 

 

その後、産業革命による文明が発展していくと資本家と労働者の所得格差が広がっていき、労働者の不満というものが高まっていった。1848年ドイツに生まれたユダヤ人カール・マルクスにより「共産党宣言」続いて「資本論」が発表され、彼の思想である共産主義、国家は最終的には階級のない人々によりともに助け合いながら運営されていくといった理想的な社会は、新しい国家運営の方法として注目されることになるが、このことは未だに権力にしがみついている王侯貴族や教会勢力に危機感を抱かせるものとなった。

 

欧州にて一大勢力を保持していた皇帝ニコライ二世が統治するロシアであったが1904年新興著しい東亜の大日本帝国と朝鮮の利権を争った日露戦争に敗れると、アジアへのさらなる進出をいったん保留して、欧州での勢力を伸ばすことにその野望を傾けた。1914年オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子フランツ・フェルディナント夫妻が、サラエヴォでセルビア人に襲撃され死亡した。オーストリア=ハンガリー帝国とセルビアとの間で開戦の緊張が高まる中、英仏露伊独、5か国による緊急外相会議をイギリスが呼びかけるが、ドイツの反対により和平会議が開催されることはなく、その後ドイツは8月にロシア続いてフランスに宣戦布告し、世界大戦が勃発した。この戦争は想像以上に長引き総力戦となっていった。その中で経済は疲弊していき国民の不満が最高に高まったロシアで1917年2月革命が勃発。皇帝ニコライ2世は退位しリヴォフを首相とする臨時政府が成立しその後ケレンスキーが正式に首相となった。そして10月、フィンランドへ逃亡していたウラジーミル・レーニン率いるボリシェビキ軍がケレンスキー政府を武装蜂起により倒し、11月8日にソヴィエト大会を開き、初の共産主義国家ソヴィエト社会主義ロシア共和国が樹立された。

 

 

初の世界大戦がもたらしたものはオーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国、ドイツ帝国およびロシア帝国という四つの帝国の滅亡、また大清帝国も大戦とは関係ないがこの時期に滅亡しているが、とアメリカ、ウィルソン大統領が推進した世界大戦への予防的手段としての国際連盟の樹立であった。しかい、狂信的なキリスト教信者であったウッドロー・ウィルソンが行った戦後処理は、彼が唱えていた敗者に対して博愛主義的なものではなく、敗戦国ドイツにのみ過酷な制裁と懲罰を与えるというものであり、つづくハーディング大統領が開催した太平洋会議、大戦後の太平洋地域においての戦力と支配地域の確定、においてアメリカはその保有可能戦力を最大のものとし日本とイギリスの海軍力を制限し、かつ日英同盟を強制的に破棄させた。これらのことがウィルソンの思惑とは反対に二回目の世界大戦へと世界を向かわせることになった。

 

 

レーニンが起こした共産主義革命により樹立されたソヴィエト社会主義ロシア共和国であったが、彼の死後引き継いだスターリンにより世界共産化を進めるための、革命支援が行なわれ、それはソヴィエト内での体制強化のための独裁化、言論封殺に至ることになった。このことは大戦による総力戦で労働力がいなくなってしまった欧州社会が女性の社会進出を推し進めることとなり、結果として女性への人権意識を生み出し、一般参政権運動へと日米欧の諸国が向かったのとは対照的なことであった。ソヴィエトが推し進める共産主義革命とは、その後、西側諸国の目から見れば人の手に渡った権力が悪魔の手に陥ったものとして映ることになる。

 

 

ここまで二千年以上におよぶ人類の歴史、主に西洋中心にざっくり過ぎるほどに見てきた。 それは絶対神の言葉を正義とし、それ以外を悪とする概念の歴史であり、正義の御名の下に行われる聖戦の歴史である。正義の名の下に行われる戦いは、あらゆる手段を講じてでも勝たなければならないのである。正義とは、神の御言葉の行使であり、また革命のための大義名分である。聖戦の、あるいは革命のために、時には人を騙したり、欺いたり、または民衆を何十万人、もしくは何百万人死に至らしめようが勝てばいいのである。勝った方が正義であり、正義には神の祝福が、または革命の果実が与えられる。それがロシアを含めた欧米社会の根底の理念であったと考える。そうした中、欧米諸国により無理やりに開国させられ、西欧化の道を進んだ大日本帝国は、それでも武家政権による数百年の時間の中で築きあげられた武士道精神、正道をもって良しとする生き方を保ち続け、欧米社会に搾取されてきたアジア諸国の開放を大義名分として戦いを挑むことになっていくが、長くなるので続きはまた別の機会に。

 

 

ここまで長文を読んでくださった皆様、大変ありがとうございました。