舞へ舞へ蝸牛(かたつぶり) 舞はぬものものなら

馬(むま)の子や牛の子に 蹴(く)ゑさせてん 踏み破(わ)らせん

真に美しく舞うたらば 華の園まで遊ばせん

 

舞うとはカタツムリが角を出して這いまわるさまである。子供の遊び歌を題材にした今様の一節だ。

平治の乱の主役である藤原信頼であるが、平治物語ではこの人のことを文もなく武もなく、単に後白河院の寵愛の下で異例の出世をした人、合戦の際は極度の緊張のあまり馬に乗り込む際に勢い余って反対側に顔から落ちて鼻血を出すなどみっともない分不相応な地位に就いた人と、あからさまに卑下した記述ばかりである。平治物語自体がおそらく源頼朝の鎌倉幕府時代に書かれた軍紀物語なので源平合戦の勝者である源氏を持ち上げた話が多いのも事実だ。作者が頼朝に忖度したのであろうか。

 

藤原信頼は藤原氏全盛期を築いた道長の兄道隆の流れをくむ藤原北家の出身である。保元の乱以降この人は異例の出世をした。平治物語では後白河上皇のアサマシキ程の御寵愛により26歳の若さで正三位・中納言までになっている。この異例の出世は後白河上皇と男色の関係にあったためと平治物語は暗に示している。

この時代(に限らずだが)、男色とは一般的なものであったようである。男色とはゲイ(G)のことではなくバイ(B)であり、セックスの相手は男でも女でもよかったようである。これは単なる創作とか推測ではなく事実であったようだ。保元の乱の主役であった悪左府、左大臣藤原頼長は日記にその夜の営みの詳細を残している。

平治物語で枕営業にて異例の出世をしたとこき下ろされている信頼であるが、後白河院のお気に入りであったのは本当であろうが男色関係にあったのかはわからない。

 

後白河院のもう一人のお気に入り信西は出家しているので出世は彼自身には無関係であるが彼の子供たちは(15人の男子と5人の女子)同じように異例の出世を遂げている。さらに当時の公家社会の評価では彼の子供たちが優秀であると評価が高かったのである。この事が当時の貴族たちに反感を抱かせることになり反信西の勢力が徐々に形成されていくことになった。

 

信西(藤原通兼)の子供たちの出世と信頼のそれを考えると、後白河院の二人のお気に入りの中ではバランスの取れたものではないだろうか。

信頼は自身にとって目の上のタンコブである信西の排除は出世のために必要なことだと考えたようだ。彼は信西の子供たちの出世に反感を抱いている中間管理職にあたる藤原経宗と惟方と接近し信西派排除の計画を企むことになる。彼らは信頼の庇護者たる後白河院の院政に反する二条天皇親政派であるにも関わらずである。このグループに参加するのが源義朝である。信頼は武蔵国の知行国主であったので東国の実力者である源氏との関係を構築していたようだ。また奥州藤原氏とも異母兄の基成を通じて関係は深かったようである。一方、源義朝であるが保元の乱の処理で信西により自身の手で実父為義と弟を処刑させられている。また保元の乱の恩賞で平清盛は播磨守に任ぜられたのに対し自身は佐馬頭に過ぎなかったことも平家に対して敵愾心を抱くようになったのであろうか、武家の棟梁としての野心のために信頼についたようだ。

計画は平清盛が熊野参詣に出かけ京を留守にしている間に実行された。後白河院の住居である三条東殿を襲撃し焼打ちをかけて後白河院を拉致し一本御書所に二条天皇と共に幽閉、また姉小路西洞院にある信西の住居にも焼打ちをかけた。いち早く乱勃発の一報を受けた信西は逃れたのであるが後日、志加良木山で発見された際自害して果てた。

 

乱を成功裏に収めた信頼であったが、乱後清盛をすんなりと京へ入れさせて住居である六波羅へ戻させたことにより命運が尽きたようである。信頼としては関係もある実力者清盛を敵にしたくはなかったことは容易に想像できる。ならば清盛にあくまでも信西排除が目的なので中立を保つように計画実行前に説得すべきであった。もしくは清盛を潜在的敵とみなして清盛の京帰還を阻止すべきであった。乱後の明確なヴィジョンなしに計画を実行したのは思慮が足りなかった。若さゆえだろうか。それとも平治物語でいうように文もなく武もなく何の才もない人物であったのであろうか。

乱後、急ぎ六波羅に戻った清盛は二条天皇親政を目指す藤原経宗と惟方を味方につけ二条天皇を六波羅の住居へ迎え入れる。後白河院は一人仁和寺へと向かい中立を決め込んだ。これにより信頼・義朝軍は朝敵となり勝敗は決まってしまった。平治物語によれば乱の第2ステージでは義朝軍は六波羅攻めを行い善戦することになるが(作者の源氏政権への忖度?)最終的には敗れ、落ち延びた義朝は尾張国知多郡内海の永田忠致(ただむね)の屋敷に逃げ込むがそこで忠致の家人により殺害された。

敗れた信頼は結局後白河院のいる仁和寺へと逃げ込むことになる。自身の手で居住していた三条東殿を焼打ちし幽閉したにもかかわらずである。寵愛を受けた後白河院の情けに縋ったのだろうが何とも情けない自分勝手な人物と思われることは否めない。後白河院により二条天皇へ信頼の助命嘆願がなされるが二条天皇は返答していない。信頼はその後、平教盛により仁和寺から連れ出され六条河原で処刑された。その際に首実検に来た清盛の嫡男重盛に信頼は助命を嘆願する。重盛は清盛に助命の相談をするのだが清盛の返答は信頼処刑は二条天皇の意思ということが平治物語に記されている。

平清盛は一般的に極悪非道の絶対的な権力者といった印象が強いが実際の清盛は血も通った情にもろい人であったようだ。義朝の嫡男義平は捕まった後六条河原で処刑されているがこれも清盛の独断で行えるはずもなく二条天皇の意思があったと考えるべきであろう。同じく捕まった三男の頼朝は清盛の継母池禅尼の嘆願により助命されて伊豆への配流といった処置がとられている。清盛自身も相当迷ったようである。しかし最終的には将来の禍根の可能性もわかりながら頼朝の助命をしている。義朝の妻であった常葉御前とその子たちも清盛の配慮により助命されて無罪放免されている。リスクを最小化する冷酷な決断を下せなかったことで武家のリーダーとしてはいかがなものかということは言えるのかもしれない。しかし彼の本意は武家のリーダーとしてではなく政治家として政治改革に使命を感じていたのではないだろうか。それ故に将来のある源氏の若武者の道を閉ざすこと、結果として良き人材を失うことに対して逡巡した後で出した決断と考える。清盛についてはまた改めて語ってみたい。

この様にして平治の乱は終結し平氏がその勢力を強めていくことになる。平治の乱について真の首謀者は後白河上皇だという説がある。大変面白い説ではあるが後白河院はもし敗者となった場合どのような運命が自身に待ち受けているか十分に分かっていたはずだ。保元の乱の敗者である崇徳院は自身の手で(実際には信西が行ったことであるが)四国へ配流している。いくら暗愚の君とは言え頭の中も筋肉でできているような義朝と、そして秀でた才能も認められない信頼と組むことは二条天皇と勢力争いをしている中で得策でないことは明らかであったはずだ。後白河院が信西排除の首謀者であったならば清盛と組む方がリスクが少ないと考えたのではないだろうか。それ故に後白河院首謀者説は説得力に欠けているように思われる。

藤原信頼は27歳にして権力者の夢破れ鴨川に散った。源義朝は37歳にして武家の棟梁を夢見ながら尾張の海に散った。二人とも移ろいゆく時代の中でうまく舞えなかったようである。馬に蹴られて牛に踏みつけられてその生涯を終えることが時代が彼らに求めた役回りであったようだ。