スポーツに関しても触れてみたい。まずはオリンピックだ。ソヴィエトのアフガン侵攻に抗議するために1980年のモスクワオリンピックは日本を含めた西側諸国によりボイコットされた。それを踏まえて新たにIOCの会長となったサラマンチによりオリンピックの商業化が84年のロス五輪より大々的に進められオリンピックはアマチュア・スポーツの祭典からプロも受け入れる世界一を目指すスポーツの最高峰という位置づけになり今日に至っている。それまでもオリンピックの場が国威発揚の場ととらえられてきたのは事実であるがそれでもアマチュアスポーツの祭典として参加することに意義がある(勝つことを目的とするのではなく勝つためにいかに正当な努力を行ったかというその戦い方が重要であること)という理念から商業化によりより早く、より強く、より高くといった結果主義といかに世界中の視聴者を魅了させるかの商業主義に突き進むことになり今日に至る。

商業化前でも例えばソヴィエト連邦を代表する東側諸国による手段を択ばない選手育成方法は指摘されていたのだがソ連の解体による小国乱立と西側諸国に一般的にみられる道徳や倫理観に基づかない勝つためには手段を択ばない国々の台頭とその国威発揚を五輪の商業化は結果的に後押ししたことになったのははなはだ残念なことである。モスクワ五輪に続くロス五輪は東側諸国のボイコットにより片肺飛行をやむなくされたのだがその開会式は例えば個人用ジェット推進装置による人の飛行などのパフォーマンスはアメリカの豊かさ、進んだ技術を魅了させるには十分すぎるものであったことは記憶に残っている。

その後のソウルオリンピックは日本からの40億ドルの円借款により(1983年中曽根総理の韓国訪問時社会インフラ整備のために10年間にわたる円借款を表明)開催に至るのだがソ連や東ドイツが参加した最後の大会となりそれぞれ132個と102個のメダルを獲得している。ちなみにアメリカは94個である。この大会で印象的であったのは当時陸上界のスーパースターであったカール・ルイスをカナダのベン・ジョンソンが100mの決勝で9秒79の世界新記録を出してゴールしその後右手を高らかに上げてその勝利をアピールした場面であった。その後ジョンソンはドーピング検査で陽性となり金メダルははく奪されることになるが視聴者側からの立場では、ステロイドの使用は禁止はされていたもののドーピングテストをいかにパスするかということが一般的に行われていたことは半ば事実として捉えられていたので(現にソウルオリンピックの際カール・ルイスもドーピングで陽性反応が出ていたのだが検査員を説き伏せたといったニュースもある)カール・ルイスでビッグ・ビジネスを計画していたスポンサーによる陰謀ではないかという疑いを強く持ったのは事実でゴールの際の感動が素晴らしすぎたので非常に後味の悪い結末にアメリカの商業主義に憤りを覚えたのは事実である。

 ほかのスポーツではテニスでビヨン・ボルグとジョン・マッケンローの全米オープンでの80年と81年の死闘は記憶に残る試合であったことは間違いない。またモータースポーツではF1におけるホンダの大活躍は語り継がれるべき偉業であった。アイルトン・セナとアラン・プロストを擁したマクラーレン・ホンダは88年には16戦中15勝するという偉業を成し遂げ、89年までのF1界ではどこがチェッカー・フラグを受けるかではなくチェッカー・フラグを受けるのはセナかプロストかという時代であった。この関係は89年の鈴鹿GPまで続くがここでのシケインでのプロストとセナの接触事故により(同チーム内で一位を争うあまり譲り合うことをしなかったため)翌年プロストがフェラーリに移ることとなった。ホンダ対フェラーリとチームを移しての戦いになってゆき日本中がF1ブームで盛り上がった時期であった。フジテレビ系で放送していたのだがその番組でスクエアが演奏したテーマ曲も話題となったことも付け加えておく。