第33章 平成25年 夜行高速バス渋谷・八王子-金沢線・高速バス金沢-高岡線とカレーの思い出 | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
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 (「第32章 平成25年 高速バス千葉-長野線と長野-富山線・富山-金沢線を乗り継いで北陸の古都へ」の続きです)

 

 

金沢市内の病院に母を見舞い、意外と元気そうな様子に安堵して、金沢駅に戻ったのは、日曜日の午後4時過ぎだった。

予約した東京行き夜行高速バスの時間まで、だいぶ時間が残されている。
金沢に住んだことがある高校の友人が勧めていた、小立野の料理屋にでも行ってみようか、と考えた。

東口のバス乗り場を歩いていると、待ち人でごった返す高速バス乗り場で、高岡行き高速バスの発車時刻が16時25分であることに気づいて、足が止まった。
美味しい夕食を食べるか。
乗ったことがない高速バスを初乗りするか。
少しばかり逡巡したけれども、間もなく乗り場に滑りこんできた高岡行きの北陸鉄道バスの姿を目にした僕は、思わずステップを駆け上っていた。


昼過ぎに乗車した富山-金沢間高速バスに比して、少しばかりくたびれた車両だったし、運転手も何となく素っ気ない感じがしたものの、最前列右側の席をせしめることが出来たので、小立野の料理屋はすっかり頭から消し飛んだ。

  


高岡行きの高速バスは、金沢駅を発車して北陸自動車道に乗るまでの経路が、独特で面白かった。


金沢発着の高速バスは幾つか経験しているが、東京、仙台、富山、新潟など、金沢から北陸道を東へ向かう路線は、金沢駅から浅野、乙丸、高柳の町を経て金沢東ICへ向かい、名古屋、京都、大阪、小松空港などの西行き路線は、武蔵が辻、香林坊、片町を経て金沢西ICへ向かうのが常だった。
金沢駅から金沢東ICへ向かうと、多くの乗降客が見込める武蔵が辻や香林坊といった繁華街を通らないので、起終点を兼六園下停留所にして、繁華街を経由してから金沢駅に立ち寄る金沢-新潟線や金沢-富山線のような路線も誕生した。

ところが、僕が乗った高岡行きのバスは、あたかも高岡が金沢の西側にあるかのように、駅前から古びた街並みを眺めながら、武蔵が辻、香林坊と、車と人がひしめく繁華街へ鼻先を向けたのである。

 

 

武蔵が辻には、幼かった僕が金沢に連れて来られた時に宿泊した、スカイホテルが建っている。
今でこそ、もっと高層のホテルが市内に建っているけれども、昭和50年前後で20階建てのビルなど、故郷信州にはなかったし、初めて経験する高さだったので、幼心にも興奮したものだった。
改めて見上げると、スカイホテルも古びたな、と思う。

 

「みんな、年とともに小さくなるのよね」

 

との台詞が、ここでも脳裏を掠めた。
 

香林坊は、言わずと知れた金沢随一の繁華街である。
京風菓子の老舗や輪島塗、九谷焼の店などを家族で巡った記憶が蘇り、こよなく懐かしい。
遠回りになるけれども、金沢西ICから高岡に向かうのか、と首を捻っていると、バスは香林坊を過ぎ、よく手入れされた並木が並ぶ兼六園を左手に見ながら左折した。

 

「お前が子供の頃、毎日、兼六園に連れてきたもんだったよ。乳母車に乗っけてねえ」
 

と母から何度も聞かされたが、金沢を離れて長野へ引っ越したのは、僕が3歳の時だったので、覚えているはずがない。

 

 

これまで高速バスで通ったことがない、城下町らしく狭く入り組んだ路地を、高岡行きのバスは走り始めた。

何処へ行くつもりなのだろう、まさか乗り間違えたのか、と心細い心持ちにさせられたが、バスは卯辰山の麓を回って、旭町で山側環状道路へ左折、加賀平野東端の山地をトンネルでくぐり抜けて、金沢森本ICから北陸道に入ったのである。
金沢市内の南半分を、反時計回りにぐるりとひと回りして、小立野の近くも通ったことになる。
 

高架の本線に沿った流入路で真っ直ぐに合流する、首都高速のように素気ない構造の金沢東ICや金沢西ICと違い、森本ICはこんもりと木々が繁った丘陵に囲まれて、出入路の曲線が美しい。

数年前に妻と金沢を訪れた時に、レンタカーで市内から小松空港へ戻ろうとして道に迷い、この森本ICにたどり着いたことを思い出した。
飛行機の時間が気になって焦った記憶と、森本ICの緑豊かな風景は、いつもひとまとめに脳裏に蘇ってくる。
後で地図を見ると、実に壮大な迷い方をしたものだと思う。
 

 

金沢と高岡を結ぶ高速バスは、平成22年3月に開業したばかりであるが、歴史は大変古く、昭和38年5月に開業した国道8号線を経由し、金沢と富山の県都を結んだ長距離急行バスに遡る。
それならば、僕が昼間に乗った高速バス富山-金沢線のルーツではないか、と思われるかもしれないが、その時の運行バス会社は、高岡の事業者である加越能鉄道バス単独だったのである。
1日5往復が運行され、所要は2時間30分、主な停留所は金沢駅前、武蔵ヶ辻、橋場町、森本駅前、新津幡、天田峠、石動駅前、福岡駅前四ツ角、高岡駅前、市庁前、五福大学前、丸の内、富山駅前であった。


同時期に、金沢駅前から福光、福野、砺波、速星を経由して富山駅前に向かう快速バスも運行されていたらしい。
どちらも運行期間は短かく、昭和42年の時刻表に掲載されているものの、昭和45年には記載がなく、この間に廃止されたようである。
 

平成3年12月に、加越能鉄道バスと北陸鉄道バスが共同で、金沢駅-武蔵が辻-橋場町-金沢東IC-小矢部IC-石動駅-福岡駅-瑞穂町-高岡駅と、往年の急行バスの経路の一部を北陸道に載せ替えた高速バスを開業した。
ところが、運行が週末や祝日だけと変則的で、利用者数が伸び悩み、平成7年3月に運休してしまう。

 

 

15年後に、経路を見直した上で、金沢-高岡間に高速バスが復活したのである。

その経路は、金沢駅-武蔵ヶ辻-香林坊-広坂-兼六園下-旭町-砺波駅南-砺波市役所前-戸出4丁目-高岡テクノドーム前-高岡駅-広小路-志貴野中学校前-職業安定所前であった。
 

何処へ連れて行かれるのか、少なからず不安に駆られていた僕は、森本ICから北陸道に入ると同時に、すっかり安心して、猛烈な眠気に身を任せてしまった。
ふと気づけば、バスは短い高速走行を終えて砺波ICを降り、砺波駅の近くのこぢんまりとしたバスプールで、10人ほどの乗客を降ろしているところだった。
高速道路の区間を、丸々寝てしまったわけである。


そこからは、JR城端線と床川に沿った県道で、広大な水田地帯を坦々と進むだけであった。
舞台の幕が降りていくように、見渡す限りの田園と、点在する集落や工場が、夜の帳に包まれていく。

 

 

この時間の1人旅はいけない。

母の病気と、それを見舞いに来たという重い現実から目を逸らせて、当てどなく彷徨っている自分は、いったい何をしておるのだろう、との思いが胸にひたひたと押し寄せてくる。
乗り物や旅が好きで、望んで異郷の地に身を置いているはずなのに、今から列車や航空機を捕まえれば今日中に東京の我が家へ帰れるではないか、という誘惑が心の奥底から湧き上がってくる。

 

そもそも、このようなバスに乗る時間があるならば、どうして母と過ごす時間に当てなかったのか。

病身の母に会いたい一心で金沢まで来たにも関わらず、いざ面と向かい合うと、気後れがする。

学生時代に、ひとかたならぬ苦労をさせた後ろめたさが心に蘇ってくるためか、長野の実家に滞在している時ですら、僕は自室に閉じ籠ってばかりだった。
 

 

市街地に入ると渋滞に巻き込まれ、若干の遅れで到着した高岡駅前バス停は、駅は何処にあるのか、と戸惑うような路地裏にあった。
すっかり暗くなったバス停に降りたのは、僕1人である。
このバスの利用者の大半は、直通交通機関がない金沢-砺波間なのだろう。

 

高岡駅に、当時鋭意建設中だった北陸新幹線は乗り入れない計画だったが、大規模な改修工事の真っ最中だった。
金沢や富山のような賑わいはなく、シャッターを締め切った幽霊屋敷のような佇まいの駅前ビルの入口に、浮浪者らしき男性が寝転がっている。
 

高岡では、2~3時間を過ごしながら、何か美味しいものでも食べようと目論んでいた。
ところが、時折路面電車が出入りするだけの閑散とした駅前通りに目ぼしい店は見つからず、僕はやむなく全国チェーンの蕎麦屋の暖簾をくぐって、1人侘びしく杯を傾けた。

 

 

東京へ帰るために予約している夜行高速バスは、加賀温泉駅が始発である。
時間を持て余すことは目に見えていたから、22時50分に発車する金沢駅ではなく、21時30分発の加賀温泉駅での乗車を予約し、30分ほど前に着く列車に乗る心づもりでいた。


ところが、高岡での夕食のアテが外れたので、もっと早い列車で加賀温泉に行ってしまおう、と考え直した。

18時34分発の金沢行き普通列車は、懐かしい急行型車両だったが、ガラガラにすいていた。
北陸本線を急行電車として疾走していた往年を忍びながら、広々としたボックス席4人分を独り占めし、足を投げ出しながらくつろいだ。

 

 

西高岡、福岡、石動、倶梨伽羅、津幡、森本、東金沢──

 

とっぷりと日が暮れた北陸本線で、旧型電車に揺られながら、人影が少なく薄暗い各駅に停まっていく様は、どこかうらぶれた雰囲気が漂っていた。
 

19時16分に金沢駅に到着した。
賑やかにホームを行き交う人々の姿に、何となくホッとする一方で、この人たちはすぐに家に帰るのだろうな、と思うと、身悶えしたくなるほどの孤独感が込み上げてくる。
金沢で時間を潰すのが無難かな、と逡巡したけれども、
 

「19時18分発敦賀行き、間もなく発車します」
 

というアナウンスに誘われるまま、僕は、ホームの反対側に停車している電車にふらふらと乗り込んだ。

 

 

こちらは真新しい車両だったが、座席は簡素で素っ気なく、旧型の急行型電車のような温もりは感じられない。
高岡からの電車とは何もかもが対照的で、立ち客が出るほどの混雑だった。
誰もが押し黙ったまま自分の殻に閉じこもり、都会の通勤電車と変わらず、よそよそしい空気が漂っている。


20時04分、電車は加賀温泉駅のホームに滑り込んだ。

石川県のおもてなしとは、駅舎を仰々しくすることなのだろうか。
古くからの温泉郷の玄関口には似つかわしくない壮麗な駅舎を見上げて度肝を抜かれている間に、電車を降りた客は、迎えの車やバスに乗って、そそくさと姿を消した。
気づけば、照明が煌々と灯されている駅前に、静寂だけが残されていた。
 

東京へ向かう夜行バスの発車時刻まで、あと1時間半も残っている。

 


あらかじめスマホの地図を調べて、時間を潰す目処だけは立てていた。
駅前の国道沿いに建つ、全国チェーンのカレー専門店「CoCo壱番」である。
このように陸の孤島のような立地で商売が成り立つのか、と心配になるほど、周りに何もない場所だった。
時折、車がヘッドライトで僕を照らしながら、ビュンビュンと通り過ぎていく。

ドライバーにしてみれば、このような時間に、このような場所で、1人で何をしておるのか、と訝しく思ったかもしれない。

高岡駅前の蕎麦屋と何が違うのかと問われると困るのだが、以前にも、山陰の町で夜行高速バスを待ちながら「CoCo壱番」で暇潰しをした経験があり、 カレーライスが大好きな僕にとって悪い選択肢ではなかった。

 

 

しかも、思いもかけないサプライズが僕を待ち受けていた。

石川県の「CoCo壱番」限定のようだったが、メニューに「金沢カレー」の文字を見つけたのである。


「GO!GO!カレー」などのチェーン店が展開し、金沢カレーが全国的に知名度を上げていた時期であるが、「CoCo壱番」に進出しているとは思ってもいなかったので、早速注文した。
普通盛りで450円と、「CoCo壱番」にしては安い価格である。
いつもの「CoCo壱番」と同じノリで、パリパリチキンをトッピングしたが、余計だったと思う。
カレーだけで充分に満足できた。

濃厚で、もったりしたカレー・ルーは、とてもコクがあった。
スマートではないけれど、すくって口に含んでみれば、懐かしい味がする。


 

子供の頃、家で食べていた母の手作りカレーが、このような、もったり、トローリとした感触だった。

東京で独り暮らしを始めてから味わったカレーは、どれもサラサラとスープのようなルーであったので、僕の実家の独特のカレーなのかと思っていたのだが、信州の人間でありながら、母は金沢カレーの影響を受けていたのであろうか。


特に思い出深いのは、試験前の夕食と朝食を、必ずカレーにしてくれたことである。
あれが、母なりの気遣いだったのだな、と今にして思う。
母の手作りのカレーを最後に食べたのは、国家試験を目前にして、大学生活で最後に帰省した夜だった。

初めての金沢カレーを食しながら、カレーをめぐる様々な思い出が脳裏を駆けめぐる。

それは、常に母の面影と密接に結びついている。
 「CoCo壱番」加賀温泉駅前店で、 生まれた土地の訪問にこれほど相応しい夜を過ごすことができようとは、思ってもみなかった。
 

 

加賀温泉駅前に戻ると、東京行き「Willer Express」夜行便が、ロータリーの隅にひっそりと待機していたが、運転手も利用客も見当たらない。

首都圏に向かう夜行高速バスは、加賀温泉駅を起終点にしている路線が多いようである。


午後9時を過ぎると、どこからともなく親子連れが現れて、兄妹が賑やかに戯れ始めた。
21時20分発の仙台行き夜行高速バス「エトアール」号に、長男らしい青年が乗り込んで、家族の見送りを受けながら出発していく。
妹が泣き出しそうな顔で、いつまでも手を振り続けていた。

 

 

無口になった親子が車で闇の中に消えるのと入れ替わりに、渋谷・八王子行きの西東京バスが姿を現した。
乗り込んだのは、僕1人である。

2人の運転手に迎えられて、何となく面映ゆい心持ちで横3列席に身を任せれば、これで東京へ帰ることが出来るのだな、という安堵感が僕の心を満たした。

 

 

金沢と東京を結ぶ定期高速バスに乗るのは、久し振りだった。


金沢と池袋を結ぶ「関越高速バス」池袋-金沢線が昼夜行で走り始めたのは、昭和63年のことである。
上信越道がなかった時代で、関越道を長岡JCTで北陸道に乗り換える大回りの経路を、およそ7時間半を費やしていた。

その昼行便に初めて乗った時は、「ようやく金沢と東京がバスで結ばれた」と感動したことを、今でもはっきりと覚えている。
ひと眠りすれば着いてしまう夜行便ではなく、昼間の便を選んだところがマニアのマニアたる所以であるが、関越道と北陸道の車窓を大いに楽しんで、全く飽きが来なかった。

 

 

平成13年に「関越高速バス」池袋-金沢線の起終点が新宿に移り、平成19年に、開業当時から参入していた北陸鉄道バスが共同運行から離脱した時には、びっくりした。

新宿・池袋-金沢線は、JRバス関東と西日本JRバス、西武バスにより「金沢エクスプレス」号の愛称を冠して、運行を続けた。
池袋を起終点にしていた路線と同じと考えるべきなのか、迷いながらも、結局は平成18年に乗っている。
その時も昼行便で、「新宿昼特急金沢」号と別物のような愛称になっていたが、時刻表は同じ欄に掲載されていたし、19年ぶりの車窓がこよなく懐かしかった。

経路が上信越道経由に変更されていたので、長野市を通過することが嬉しいような惜しいような、複雑な気分にさせられた。


 

「金沢エクスプレス」号に参入しているJRバス2社は、別に金沢駅・富山駅と東京駅を結ぶ「ドリーム金沢」号の運行を平成17年に開始している。

金沢発着路線は、規制緩和、新自由主義時代における乱立状態だな、と半ば呆れたものだった。

 

平成4年から、北陸鉄道バスが西東京バスが運行していた高速バス八王子-金沢線を、平成22年に渋谷経由に変更したのが、今宵、僕が乗る路線である。
僕は、同じ区間を行き来するにしても、出来るだけ異なる路線が利用できるように計画を立てる。
そのアレンジが楽しみでもあるのだけれど、今夜のバスだけは、どう扱えばいいのか迷わされた。



金沢ー八王子線は、開業当初に昼夜行1往復ずつで運行されていたが、白川郷・五箇山観光の帰りに夜行便を利用した。
どうやら熟睡中に大鼾をかいたらしく、朝になって、隣席のおっさんに大笑いされ、大変恐縮した記憶がある。


この2路線を合わせたような金沢ー渋谷・八王子線は、僕にとって、初体験の路線と考えていいものかどうか。
きちんと目的地に滞りなく運んでくれれば何の問題もないのであって、何をつまらないことをぐだぐだ考えておるのか、と思われるかもしれない。
マニアとして、渋谷行きを乗車済みの路線と考えるならば、未体験の他社の高速バスに乗りたいと思ったまでであるが、結局は座席を手配した。
金沢を発着する首都圏方面の高速バスは、池袋、新宿、八王子、横浜、千葉などと色々経験したけれども、渋谷は初めてだから、という理屈である。

 

 

バスは定時に加賀温泉駅を後にして、車の往来が少ない国道8号線を滑るように進み、小松駅に立ち寄った。
小松ICから北陸道に乗り、松任海浜公園バスストップを経由して、金沢東ICでいったん高速を降りる。
途中からの乗車はなく、僕はすっかりくつろいで、うつらうつらしながら過ごしていた。
 

22時50分発の金沢駅東口では、どっと乗客が乗りこんできて、たちまち満席になった。
騒々しさに眠気が吹き飛んで、窓のカーテンをめくってみれば、バス乗り場には、よそ行きの格好を身にまとった人々が大勢たむろしている。

 

 

この時間、金沢駅東口バス乗り場は、夜行高速バスの出発ラッシュを迎えていた。


21時発:福井経由横浜・鎌倉・藤沢行き
21時30分発:高崎・前橋・川越・さいたま新都心経由新宿・秋葉原行き
22時発:東京・上野行き「ドリーム金沢」号
22時20分発:池袋・新宿行き「金沢エクスプレス」8号
22時30分発:東京・上野行き「青春ドリーム金沢」号
22時40分発:池袋・新宿行き「金沢エクスプレス」10号と同時発車の山形経由仙台行き「エトアール」号
 

僕が乗る22時50分発の渋谷・八王子行きが出発した後にも、
 

23時発:京都・大阪行き「北陸ドリーム大阪」号
23時10分発:池袋・新宿行き「金沢エクスプレス」12号
23時15分発:砺波・高岡・富山経由名古屋行き「北陸ドリーム名古屋」号


と、各方面の夜行便がひしめいている。

 

 

高速ツアーバスが前身の路線も、数多く金沢を発車する。


「きときとライナー」(金沢20:50発、高岡・富山・滑川経由、東京6:50着)

「さくら観光」(金沢21:30発、新宿6:20着)

「中日本エクスプレス」1号車(金沢21:45発、砺波・高岡・富山経由、新宿6:30着、TDR終点)

「オリオンツアー」(福井始発小松経由、金沢22:00発、高岡・富山経由、新宿6:20着)
「JAMJAMライナー」(小松始発、金沢22:00発、富山経由、東京6:30着)

「Willer Express」(福井始発、金沢22:05発、高岡・富山経由、新宿6:20着、川崎・TDRが終点)

「VIPライナー」(金沢22:15発、高岡・富山経由、新宿6:10着、東京駅6:40着、大宮終点)
「キラキラ号」(福井始発、金沢22:30発、高岡・富山経由、新宿6:30着)

「グリーンライナー」(七尾始発、和倉温泉・羽咋駅・宇野気駅・津幡駅経由、金沢23:00発、新宿6:35着、TDR終点)
「中日本エクスプレス」3号車(小松始発、金沢23:00発、東京駅6:40着)
 

などと、金沢と首都圏を結ぶ夜行の選択肢は実に多彩である。

 


1路線1台、1便あたり20名程度の乗車としても、400~500名もの旅人が、金沢から夜間飛行に旅立つ計算になる。
 

この日は日曜日であるから、週明けからの仕事や学校に間に合うように上京する人が、少なくないのだろう。
僕もその1人である。

往年の寝台特急列車「北陸」や夜行急行列車「能登」は、とっくに廃止されている。
日中の交通機関では、新幹線から在来線への乗り換えを強いられ、航空機でも、小松空港が金沢市街からリムジンバスで1時間を要するため、乗り換えなしで首都圏を結ぶ高速バスは、北陸地方で非常に重宝されていると聞く。

 


平成10年代後半から20年代にかけて、路線バス事業者が運行する高速路線バスと法的に異なる交通機関として、高速ツアーバスが増加の一途をたどっていた。

 

路線バスが「道路運送法」に基づいて路線バス事業者が運行するのに対し、ツアーバスは、「旅行業法」に基づいて、旅行代理店などが観光バスを借り上げて募集型企画旅行として乗客を募る形態であった。

バスツアーの形態を、決まった都市の間を結ぶことに限定し、旅行会社が観光バスを貸し切って参加者を募集するのが、高速ツアーバスである。

定められた時間で毎日催行され、目的地で現地解散とすれば、世間一般の乗客から見れば、路線バス事業者が運行する高速バスと見分けがつかない。

 

舞台裏では、高速ツアーバスが道路運送法に基づいた認可を受けた路線バスではないため、定時運行に対する義務や、料金の認可、運転手の連続乗務時間と交代回数や車両の運用などといった安全性に規定が及ばない。

また、高速ツアーバスでは、代金は「運賃」ではなく「旅行代金」であり、乗客がバス事業者に代金を支払うのではなく、バス事業者が旅行代理店から貸切料金を受け取る仕組みだった。

 

一方で、高速路線バスは、安全性を含めた厳しい制限があり、開業の申請で厳しい審査を経て免許が交付されてきた。

大きな転機となったのは、平成12年に「道路運送法及びタクシー業務適正化臨時措置法の一部を改正する法律」が公布されたことである。

監督官庁によるバスやタクシーの需給調整を廃止するとともに、道路運送法の目的から「道路運送に関する秩序の確立」を排除した法律であり、バス事業の大幅な規制緩和をもたらした。

これを踏まえて、旅行会社の主催による高速ツアーバスが、急速に増加していく。

 

 

高速ツアーバスのような、点から点を結ぶ行程に限定したバスの起源は、昭和30年代から運行されていた、盆や年末年始などに運行された「帰省バス」と言われている。

 

スキー客の送迎を目的に、都市とスキー場との間で運行されるスキーバスも、ツアーバスの歴史の一幕で、新潟県の岩原スキー場で、昭和36年に最初の夜行日帰りスキーバスが運行されたのが始まりと言われ、スキー場のリフトや宿泊券等と合わせた旅行商品として催行されたことが多かったようである。

似た例として、都市から登山口までの移動を目的とした登山バスもあり、川中島自動車や松本電鉄が運行する「さわやか信州」号が一例である。



都市間を結ぶ高速ツアーバスの始まりは、昭和50年代に、北海道稚内市の旅行会社である北都観光が、銀嶺バス・道北観光バスなどの貸切バスを借り上げて、札幌と稚内を結ぶ会員制バスを、毎日決まった時刻で運行したことと言われている。

 

昭和59年に、北海道運輸局が、冬の間は需要が減少する道内の貸切バス活性化の一環として会員制バスの運行を充実する方針を発表し、後に、会員制定期バスには、道路運送法24条の2「貸切免許による乗合運送の特別許可」を適用することとした。

これを受けて、運輸省でも、昭和62年に「一般貸切旅客自動車運送事業者による乗合旅客運送の許可について」と題した通達で、「運行区間が乗合バス事業者の路線と全部又は一部で重複し、取扱旅客につき競合関係が生ずる場合」などの条件に該当する場合は、道路運送法24条の2の適用を指導することとなった。

いわば、ツアーバスの乗合旅客輸送に対して法的なお墨付きを与えた形となった訳である。

その結果、北海道をはじめ、各地で会員制バスが多数走り始めることとなった。



平成2年に、名古屋と東京ディズニーランドを結んで、日本交通公社によるツアーバス「パンプキンX-PRESS」が、定期的に運行された。

以後、各旅行会社により各地からTDLに向かうバスツアーが販売され、往路は出発地を夜に出て翌朝TDLに到着し、以後は自由行動となり、復路は夜に集合して翌朝に出発地に着くという形態が多く、丸1日遊んで宿泊費が要らないことから、大変な人気を博したと聞く。

 

今回の旅の往路に利用した千葉・TDR-松本・長野線で、他の停留所とは比べ物にならないほどTDRでの乗車が多かったことが思い出される。

ディズニーのファンではない者として、往復夜行に耐えてまで、TDRで遊びたいものなのか、と呆れたものだった。

 

「パンプキンX-PRESS」は往復利用が原則だったが、平成3年に、新宿・横浜とユニバーサル・スタジオ・ジャパンの間に定期的に催行された近畿日本ツーリストによるツアーバス「ベイドリームライナー」は、片道の参加も可能とし、USJの他に京都駅と新大阪駅の中途解散も行われ、加えて、宿泊やパスポートを付帯しないプランが設定された。

つまり、新宿・横浜-京都・新大阪・USJ間高速路線バスと、見た目には全く同じだったのである。

 

 

一方で、厳しい規制を強いられている高速路線バス事業者からは、

 

「路線バス事業まがいの事業を、法の不備を突かれて認めてしまった」

「同じ路線事業行為を行って、一方は規制されてコスト高を免れず、他方はフリーハンドで経営できるという、アンフェアな競争状態」

 

などと、高速ツアーバスに対する批判が、早くから上がっていた。

路線バス事業者の中には、高速バスの利益で、赤字のローカル路線を維持しているところも少なくない。

儲かっている路線に対して、後出しじゃんけんのように、競合する高速ツアーバスに参入されては、たまったものではなかっただろう。

事実、それが原因で、赤字路線を縮小・廃止した事業者もあると聞く。

 

しかし、平成17年7月、国土交通省自動車交通局は、「ツアーバスに関する当面の対応方針について」と題した通知を出し、高速ツアーバスを、公式に追認したのである。

 

「旅行業者が募集型企画旅行で行う、観光やスキーといった移動以外の目的を伴わない、2地点間の移動のみを主たる目的とした『ツアーバス』が、一般乗合旅客自動車運送事業類似行為ではないかとの疑義」に対して、「2地点間の移動を目的とした募集型企画旅行であっても、正規の貸切契約に基づく運行については、旅行会社に対して道路運送法上の責任は問えない」

 

世の中の規制緩和の風潮を追い風にして、急激に発展した高速ツアーバスであるが、同時に、参入事業者が急増して過当競争が生まれる結果をもたらした。

高速ツアーバスで最も懸念されたのは、旅行代理店が、バスの運行の安全性に責任を負う立場ではないにもかかわらず、それを左右しかねない料金の決定権を握っていたことであろう。

燃料高騰などに伴う経費増大を抑え、人手不足で運転手の確保が困難な状況を打開するために、貸切バス事業者は、運転手1人あたりの稼働率を上げざるを得なくなり、運転手の過労運転が大きな問題となった。


 

長野県の観光バス事業者が、運転手の居眠りによる吹田スキーバス事故を起こしたのが平成19年2月、金沢からTDLに夜行で向かっていた高速ツアーバスが、関越道で運転手の過労による居眠り事故を起こし、乗客7人が死亡、39人が負傷したのは、平成24年4月であった。

前者は故郷のバス事業者であったし、後者では、職場の先輩の娘が乗っていて負傷したと聞いたので、バスファンとしてだけでなく、心を傷めたものだった。


これらの事故を踏まえて、平成25年7月に募集型企画旅行としての高速ツアーバスは禁止され、高速路線バスと同じく認可を必要とする「新高速乗合バス制度」に統合された。

一方で、「新高速乗合バス」に転換する体力のない事業者が、少なからず淘汰されたのも見逃せない。

この頃から、高速バスを運行する事業者のHPを開けば、運行距離や乗務員数など、安全面に関わる規則を順守している旨が必ず表示されるようになった。

 

 

一方で、高速ツアーバスの運用は柔軟性に富み、安かろう悪かろうという格安便ばかりでなく、安価でありながら座席や設備の豪華さを競ったり、時期による変動運賃制の採用や、ネットでの予約を普及させたなどの功績も見逃せない。


一部を除く金沢発着の夜行高速バスは、横3列の独立シートが採用されている車両が多い。
僕が乗った渋谷行きの西東京バスは、個室カーテンで隣席と隔てられているため、周りに気遣うことなくゆったりと夜を過ごすことが出来る。
独立席であっても、前後左右の座席の客の身動きや気配は、案外と気になるものである。
カーテンだけでも、眠りを妨げられる可能性は減るように思う。
座席そのものも深々として背もたれが高く、すっぽりと身体を包み込む感じが大変に心地良かった。

 


加賀温泉駅から金沢までハンドルを握ってきた痩身の運転手は、きびきびした仕事ぶりを見せ、乗車券をチェックしたり、乗車簿に何やら記入したり、休憩・到着時間や車内設備の案内をしたり、独楽ネズミのような身のこなしに好感が持てる。
マイクを通じたアナウンスの声も、低くてなかなか渋い。


対照的に、もう1人のでっぷりした初老の運転手は、交替して運転するだけで、その他の雑事を全て相棒に押しつけているように見えないこともない。

お喋りに興じる運転手のコンビは少なくないが、この夜は、お互い口を利いている場面を全く目にしなかった。
 

2人の人間関係を気に掛けている間に、バスは加賀平野を抜けて、倶利伽羅峠に差し掛かっていた。
少しばかりガタガタする走りっぷりに、北陸道の舗装も荒れたな、と思う。
その揺れがいつしか心地よくなって、僕は、吸い込まれるように眠りに落ちた。

 


ふと目を覚ますと、バスは有磯海SAに入ろうと減速しているところだった。
時計は深夜0時過ぎを示している。
このような遅い時間に休憩か、と仰天したけれども、消灯前の最後の休憩である旨を、きびきびした運転手さんが案内した。
バスを降りれば、頬をなでるように吹く風の涼しさに、かすかな潮の匂いが混じっていた。
 

有磯海SAで休んだのは、初めてだった。
風情のある名前をつけたものだと思う。

 

かからむと かねて知りせば 越の海の 荒磯の波も 見せましものを
 

越中の国守であった大伴家持が、都から弟死去の報を受け、悲嘆に暮れて詠んだ歌が由来であるという。

 

 

視線を転じれば、同じく東京を目指す夜行高速バスが、何台も広大な駐車場に羽を休めている 。


2階建てバスを使用した「ドリーム金沢」号。
僕らのバスの隣りに止まっている「JAMJAMライナー」。
少し離れて止まっている「きときとライナー」。
加賀温泉駅でも見かけた「Willer Express」。
 

ぼんやりと眺めているうちに、ともに旅する一体感のようなものが込み上げてきて、バス好きにはたまらない光景である。
お互いの前途が平穏でありますように、と心から祈る思いだった。

 


次に目を覚ませば、早くも、カーテンの外が白々と明け始めていた。
運転手の囁くような声が、間もなく渋谷に到着することを告げる。
北陸道から上信越道、関越道とひたすら走り込んできた7時間あまりのバス旅は、ぐっすりと眠った夢の中で、あっという間に終わりを迎えようとしていた。

このまま八王子まで乗り続けて、もうひと眠りしたい欲求に駆られたけれども、そうはいかない。

3時間後には仕事が待っている。
 

渋谷マークシティには何度となく来たことがあるはずなのに、時間外出口が通じているのが見知らぬ路地裏で、自分が居る場所が何処なのか、渋谷駅にどのように歩いたら良いのか、分からなくなった。
寝ぼけ眼でふわふわと歩を運ぶ路面は、雨上がりでしっとりと濡れていて、落ち葉とゴミが散乱している。


それでも、戻ってきた日常で、また頑張ることが出来る、と僕は確信していた。
夜行高速バスの乗り心地が良く、充分に眠れたためでもあるけれど、何よりも、久々の勝負カレーを、生まれ故郷で味わうことができたのだから。



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